宮城県 浅野史郎知事 「みやぎ知的障害者施設解体宣言」と地方自治

 全国知事リレー講座。講師は、我がサイトの相互リンク先の相手でもあるアサノ知事。このリレー講座の4番目、4番バッターということですっ。 
※参考※ http://www.geocities.co.jp/WallStreet/3993/link.html


(以下、あくまで【情トラ】管理人の個人的なメモです。事実誤認等があればゴメンナサイ)

■「みやぎ知的障害者施設解体宣言」とは。
 http://www.pref.miyagi.jp/syoufuku/chiteki/kaitai.htm


■「解体宣言」の背景と意義

 知的障害者のケアについては、昔は何もなかったのであるが、対応策のひとつとして出てきたのが入所施設。特に親が安心したいと思って、そして本人も安心だという場として入所施設が数多く開設されていき、「親なきあとの安心できる場」として、現在では宮城県内に23ヶ所、入所者1800人にまで拡大した最も主要な施設といえる。しかし、現在においては、例えば、入所期間の長期化(リハビリなどを経て、出所できるようになるのは1%程度とのこと。)や4人部屋が主流であることからのプライバシーの問題、さらには地域との隔絶、規制の多さ、自立意欲の阻害といった問題点が生じている実態がある。

    • 地域生活への移行の動き

 そのような実態と問題点を踏まえて出てきたのが、グループホーム。現在では宮城県内に125ヶ所、入所者518人、今年度30ヶ所増える予定となっているとのこと。これは、おおよそ4人ぐらいが共同生活を送る場であって、そこに世話人が常駐しているもの。地域のなかに拠点をおき、それぞれが個室をもってプライバシー問題も生じないような配慮がなされているとのこと。このほかにも、レスパイト・ケア、人権擁護機関、当事者インパワーメントといった施策を実施している。
 こうしたなかで、知的障害をもつ方々からも、「もう施設には帰らない」、「海水浴をするために生まれてきた」といった自ら発言し、行動する動きがでてくるようになった。この海水浴とは、一種のたとえ話であり、『世の中(地域)を海とした場合、今までは、その海から遠く離れた山のうえに施設をつくって、これで海に溺れることはないとしていた。しかし、誰もが海水浴をするために生まれてきたのであり、溺れることを心配するのであれば、浮き輪をわたせばいいじゃないか、命綱をつけてもらえばいいじゃないか、見張りやライフセーバーを増やせばいいじゃないか。』といった考え方がでてきたということである。

    • 各地での実践

 そうした声を受けたこともあり、船形コロニー(宮城県)、西駒郷(長野県)、国立高崎コロニー(厚生労働省)による脱施設の動きがあらわれてきた。このうち、船形コロニーについては、宮城県福祉事業団が運営している入所施設であるが、ここが、平成14年11月23日に船形コロニーを2010年までに解体し、入所者全員を地域生活に移行させるという、「施設解体みやぎ宣言」を発している。この宣言に至った背景としては、知的障害者本人の希望と関係なく、施設入所を当然のこととしてきたのではないかという疑問があったという。そしてこの疑問から反省がうまれ、まず入所者全員に対して「ごめんなさい」と謝る心につながった。そして、「ふるさとに戻す」ことにより知的障害をもった人たちの生活を豊かなものにしようという発想をうみ、そのためには「より安心して豊かな生活を保障する」よう適切な支援措置を行うことに自分たち職員180名全員のプロフェッショナルを変更しようという宣言となったとのことである。

    • 解体が目的ではない、地域移行が主眼

 「解体」という語は非常に冷たく感じさせるものであり、ぶっ壊すといったインパクトの強い言葉を結びつき、ショッキングな印象を与える。そのため必ず「すぐに解体してしまうのか?」といった反応がかえってきたが、あくまで無理強いはしないように考えており、『100年かかっても』と答えている。実際100年かかると思ってもいるし、それどころか宣言しなければ300年かかってもできないのではないかとも思っている。しかし、逆に100年というと、いや50年でできるとか、20年でやってやろうという声がでるかもしれないではないか(本音は10年でできないかなぁーとのこと。)。
 また、地域移行とは、それぞれの出身地に戻したいということであり、親元に戻すということではない。そもそも限界を感じたからこそ、泣きの涙で入所施設のお世話になったのであるし、「親なきあと」の問題だってある。『親元に戻すのではない、ふるさとに戻す』としているのである。
 そして、ただ入所施設を解体するだけではなく、先に『施設での生活よりも豊かで安心できる地域生活を』用意したうえで実施する必要がある。

    • 意識改革の必要性

 以上の「解体宣言」の意義としては、言語化して宣言してしまうことで、もう後戻りはできないようにしてしまうという側面もある(これは、知事のテクニックだそうです。)。この宣言によって、行政、施設運営者、施設職員、親、地域住民の意識を改革するキッカケとしたい。
 特にこのなかでは、地域住民がもっとも困難を伴うかもしれない。あるラジオ番組で衝撃をうけたのが、「解体宣言」の地域移行の話をきいた地域住民の反対意見の内容。いわく、「野獣を街に放つようなものだ」、「刑法改正が必要ではないか」云々。これが現実かとも思ったが、これらの人たちは知的障害者の人たちを何も知らないから、こういう意見になるのだろう。なぜ知らないかというと周りにいないからであり、そこにも入所施設の弊害があるのかもしれない。また教育の問題ともいえるだろう。
 ということもあり、障害児との統合教育(=養護学校ではなく、普通の学校で一緒に教育を受けさせることとする)を推進しようとすると、教育庁との議論になった。養護学校で少人数で特に面倒を見てあげることができるのだから、本人にとっては幸せだという主張であったが、それならば、成績優秀な子どもを少人数で更に学力アップする教育が本人にとって幸せか、スポーツ万能な子どもだけを少人数集めて特訓するのが幸せかと反論し、多様な個性や能力をもつ子どもが集まるからこそ、それぞれが成長するのではないかと論じたところである。
 また、地域住民の理解があまり望まれないということであれば、地域住民の意識がかわってから、「解体」すればいいのではないかという声もあるが、まずナゼ知的障害者がその住民の意識改革を待たなければならないのかという疑問があるし、そして、そういう人が入るからこそ地域住民の意識がかわるのだ、という地域の底力を信じているところがあると答えるとのことである。


■ 行政のあり方としての「解体宣言」

    • 時代を見る目、状況の先取り

 実態に引きずられて、主義主張を決めてはならない⇒「予算が不十分だから・・・」など

    • 政治家と行政官

 60点はマイナス40点ではない。完全主義との決別をしなければならない。例えば、障害児の統合教育は、昨年度で宮城県内において4名実施している。これは、当該クラスに補助教員をつけることで実施しているが、国の補助は全くなく、県と市が半々の負担で行っているため、予算が十分に組めないことに原因がある。このことについて、行政官は全ての障害児について統合教育ができないのだから、完璧ではなく、完璧にできないのであれば「やらない」という判断をするが、政治家はそれだけでも実施できるのであればよいという判断をする。つまり、行政官は60点を100点マイナス40点と考えるが、政治家は60点もとった!と考えるのである。

    • 方向性を示すことの重要さ

 再び、「100年かかっても」たどり着くべき島影を見据える。

    • 職員にとっての専門性転換宣言もある

 船形コロニー解体宣言の軌跡をふりかえると、施設での支援の専門家から、地域生活支援の専門家への専門性転換宣言となることにも気づかされる。


■ 「解体宣言」と地方分権

    • 地方のことは、地方で考える

 宮城方式、京都方式があっていいのであって、全国一律、全国一斉でやることには怖さというかリスクがあるのではないか。

    • みやぎらしさの施策

 幼稚園と保育所の統合、障害児の統合教育、共生型グループホーム知的障害者や痴呆の高齢者などが共生し、それぞれの役割を認識することにより共生するグループホーム。同じものばかりだと凸凹のハマリがない。)、在宅ホスピスケア、要医療児童通学支援事業など

 税源委譲、補助金・負担金の廃止、地方交付税の見直しなど


【情トラ】管理人のまとめ

 前知事がゼネコン汚職が逮捕されたことがきっかけとなり、知事選に出馬し、当選。そうした出自からも県政の透明性の向上や情報公開に特に注目を集めてきた印象があるが、もともとが厚生省で福祉に携わっていたこともあり、出馬当時の公約が『宮城県を福祉先進県にする』とのこと。今回の“みやぎ知的障害者施設解体宣言”は、いよいよもって自らの強力な手札を出してきたかのように思える。
 ただし、よくよく考えてみると、この“解体宣言”は何も知的障害者施設に限った話ではないし、また福祉に限った話でもない。「行政のあり方としての“解体宣言”である」とは言いえて妙だと感じるところである。つまりは、入所施設というハコモノの整備に邁進し、その中でどのような実態があるかまでは考えが及びもしなかったという状況から、規制も多いために多様な現実に対応しきれないことを鑑み、専門性をもった人材と理解をもった地域というソフトの確立へと方針転換して、実質的な福祉施策をはかるというあり方は、これらの言葉をいろんなモノに置き換えてもズバリ本質を言い当てているといってもよいのではないだろうか。例えば、大雨・洪水対策のためにダムというハコモノの整備に邁進し、河川流域の生態系に悪影響を及ぼす実態まで考えなかったという状況から、住民の目に見える場所で、用地買収、家屋移転、橋梁の架け替え等、地域住民の理解と協力を得ることにより、よりよい治水の方策をはかろうということにも換言できるし、他にも事例をあげればキリがないほどであろう。
 なにもハコモノが悪いという一方的な見方ではない。現状をきちんと認識し、分析し、そして何が実質的に最もよい方策かを探るということが必要なのであろう。人の多くは「自分がやっていることは正しい」と思いたいところがあるはずである。しかし、先の例でいえば、「ハコモノ整備だけでホントウに良いの?」という疑問もあるはずである。そこに首長である知事が“解体宣言”というインパクトのある表明をすることによって、「やっていることは正しい」という思いに揺さぶりをかけること。それは政治家として非常に重要な資質によるものではないだろうか。

※参考
http://osaka.yomiuri.co.jp/chiji/ch40430b.htm