多文化主義社会の到来【関西】

【1】
■主流国民は他の独自文化を否定する同化主義を避け、各々の民族集団はその伝統文化を大切にしなければならないとの考え方が「多文化主義」にある。しかし、この考え方は、文化的多様性を重要視する文化観とは逆に、純粋伝統文化の維持こそ各民族集団の義務であると考える本質主義的文化観を含む。その結果、各々の文化間の交流を抑え、排他的に各々の文化の独自性を守るという「自文化中心主義」を生じさせ、「多・文化主義」となってしまうのである。そもそも、こうした本質主義的文化観は、国民国家民族自決の正当性を主張するための政治的レトリックに過ぎないものである。本来、必要とされるべき「多文化・主義」のためには、この本質主義的文化観ではなく、文化は常に人々の必要に応じて作り変えられるという、社会構築主義的文化観が必要とされる。文化は常に発展のために異文化と相互交流し、切磋琢磨するための文化的対話を必要とするのである。


【2】
■日本においては、外国の言葉を外来語として、そのまま用いることが多くみられる。これは、単に言葉だけではなく、その言葉が持つ文化的背景も含めて借用していると指摘されるところである。
■たとえば、「インフォームドコンセント」という語である。これは、「十分な説明を受けた上での同意」といった意味であり、医療現場での患者と医者との関係で用いられる語である。この語は、アメリカにおいて、1950年代末から医療過誤に対して患者の権利を守るために、医者の説明義務と患者の同意の権利とが論じられ、60年代に至って患者の同意を巡る裁判が増加したことに由来する。日本においても、患者の自己決定権と医者の説明義務が1980年代に入って司法の分野で確立した。その患者の権利と医者の義務を言い表す語として、「インフォームドコンセント」を借用しているのである。
■このように、これまで日本になかった事物や思考を表現する際に、外来語として受け入れることは、便利な方法である。初めからその制度設計を行う必要もなく、日本での必要に応じて創り替えるだけで良いからである。こうした社会構築主義的なあり方は、日本の文化に有意義な影響を与えていると考える。
■しかし、この外来語ばかりが氾濫してしまったら、円滑な伝え合いの障害となる面も出てくる。とりわけ官庁など公共性の強い組織が、なじみの薄い外来語を不特定多数の人に向けて使用することは避けられなければならないだろう。読み手の分かりやすさを優先して、外来語の言い換えなどの試みがなされることは大切なことだと認められる。
■文化の相互交流であれば良いが、異文化を何の疑いもなく、そのまま受け入れてしまうような態度は、社会構築主義的な態度ではない。切磋琢磨するための文化的対話があってこそ「多文化・主義」なのである。