政治家の当落を握っているのは、、、。

 よく読みに行っている「http://homepage2.nifty.com/ishidatoshitaka/diary.html」(石田さんについては、「政策担当秘書の仕事について」(国会議員政策担当秘書 石田敏高 氏)も参照)
 この日記の12月6日のエントリーが、最近【情トラ】が考えていたことと関連がありそうだったので、ちょっとまとめてみようかなぁという試み(そーです、あくまで現時点では『試み』ですよっ。)を以下に。

12月6日(月)「Love for Sale」: 石田日記

 ベタな政治の有用性は替わらないだろうけど、今や政治家の当落を握っているのは陳情処理の数ではなくて党官僚だというのが僕のかねてからの主張。そうした状況の中で秘書の役割も変わるし、求められている資質も変わる。


【情トラ】まとめ
 ザックリ考えて、「政治への不信感=政治家を信頼できない→浮動票となる」って構造があるのではないかと、よく指摘されるところです。しかし、このときの「信頼」って、どのように形成され得るのでしょうか。これを考えてみることを出発点としたいと思います。
 このことについて、【情トラ】は、「従来から存在する信頼」と「現在において生じている信頼」は、区別しないといけないのではと考えています。つまり、「従来から存在する信頼」は、特定の人や特定の集団内での濃密なコミュニケーションがあって形成される「特定の関係に基づく信頼」であり、対して、「現在において生じつつある信頼」は、人や組織に依存せずに、目的や理念に基づいて、それに対する評価に基づいて形成される「普遍的な信頼」であるとの違いがあるのではないかということです。
 このうち、前者の「特定の関係に基づく信頼」とは、まさに石田さんのエントリーにえがかれていたような「昔の秘書の仕事」などによって築かれるものといえるでしょう。ただし、どうしても、このような特定化によると、既得権の発生及び腐敗が避けられないとの欠点を持ちます。もっといえば、それらの腐敗が生じたからこそ、政治への不信感が生じたとさえ考えられるわけです。
 これに対して、後者の「普遍的な信頼」とは、例えば、災害時のボランティア活動などに見られるものだと考えられます。災害時のボランティア活動においては、ホントに多種多様な人びとが集まり、それぞれに色々な価値観を持っているわけで、そこには「特定の人や特定の集団内での濃密なコミュニケーション」はほとんど見られないのではないでしょうか。しかし、そうした特定化の要素がなくとも、こうした場合においては、災害復旧や被害者救済という明確な目的が存在するために、極端な利益対立などは起こることなく、合意形成が容易いといえます。目的に対してどれだけ有益であるかとの評価に基づき形成されるものが、「普遍的な信頼」だと考えるわけです。
 この「普遍的な信頼」は評価に基づくものであるがゆえに、当然のこととして、その評価が下がれば信頼は失われることになります。もし、特定の関係となった人や組織に依存するという関係が築かれていれば、ナカナカそこから離脱することは難しいのでしょうけど、そうではないので「普遍的な信頼」は離脱が可能であって、「特定の関係に基づく信頼」にあったような腐敗の危険も回避することできると考えられます。
 要するに、これら2つの「信頼」の違いは、「人や組織に依存する」ものと「理念や目的に基づく」ものと表すことができるでしょう。また、「離脱可能性」があるかないかとの違いもあるといえます。さらに、選挙という場面においては、次のような違いがあると考えられます。
 すなわち、「特定の関係に基づく信頼」だけに基づき判断するのであれば、投票する際に、ほぼ努力を要さなくなるはずです。たとえば、「上司があの候補者に入れろというから投票する」人や、「あの候補者がお金くれたから投票する」人もいることすらあるといえるでしょう。
 それが、「普遍的な信頼」に基づき判断しようとすれば、投票する際には、特別の努力を要することになるはずです。情報収集から問題分析、争点理解、意思決定、そして、実際の行動と事後確認というように、多くの過程を経なければならなくなるはずなのです。
 この違いは大きな違いですけど、果たして、あるべき姿はどちらなのでしょうか。
 なお、「選挙の投票」は、換言すると「信頼」を表す制度であるともいえます。そして、その「信頼」とは、投票の秘密が保障されていることや、良い意味での簡易性、特定の利害がなくても形成できるものであることなどから、本来的には「普遍的な信頼」こそを指すように感じます。
 具体的には、ロッキード事件に対する「新自由クラブの躍進」、リクルート事件と消費税導入に対する「社会党のマドンナ・ブーム」、東京佐川急便事件や金丸氏脱税事件に対する「日本新党の躍進」、森喜朗首相(当時)の低支持率に対する「小泉純一郎(・田中眞紀子)ブーム」のように、単に「悪いことをやるな」といった訴えが力をもった例もあります。これらの例は、何も「特定の関係に基づく信頼」から生じたものではなく、「政治家不信を高めるスキャンダル」が発生した後に、その状況を刷新してくれそうな「期待を集めるクリーンな政治家」が登場したことに対する評価から形成された「普遍的な信頼」によって生じたものだと考えられます。
 ただ、これらのブームは、一時的なブームでしかなかったわけであり、持続的ではなかったこともまた事実です。そのためにも、恒常的な「普遍的な信頼」を形成する評価を得られるように、個々の有権者の「情報収集から問題分析、争点理解、意思決定」をより容易にできるための仕組みとして、「党官僚」が必要だと考えられるのかなと思っているトコロです。