【591】公の担い手となるべき? (12/09 12:56 )

★ばれては困る三重県政★ さんは言いました。

これはあくまでも私見に過ぎませんが、「新しい時代の公」とはグローバリズムの世界で私はどう生きればいいのかを議論する場だと思います。
(中略させていただきました【情トラ】)
私は、どのように多様な担い手になれるんだろう。強制されれば拒否するのか、追随するか。
(中略させていただきました【情トラ】)
拒絶すればグローバル社会では異端視されることは免れない。ですからどう係わるかこそが重要であり「私には関係ありません」では許されない。法制化、条例化され2年後統一選挙後にも憲法が改正になります。

 私は、ここまでハッキリとは考えていないのですが、しかし、ある意味では同じようなコト(かな?)を考えているトコロです。

 つまり、「新しい時代の公」といって、地域共同体に奉仕する“べき”との価値観が、“強制”されないかということ。そして、「公を担えない者」が低く見られたりするのではないかと考えているのです。

 これは、何も「公なんて担いたくないっ」とか言っているわけではありません。

(私個人に限って言うと、)
・私がよりよく生きようと考えているならば、
・私に時間的・経済的な余裕があるのならば、
・何らか見過ごすことができないことがあるならば、
何も「公の担い手となりましょう」と言われなくとも、自らの私的関心や私的利益を基にして、それを超えたところの「公共」のことだって考えようという気になるわけです(だって、私一人じゃ生きていけませんしね。)。

 そのように、私的関心から「公共」を考えてきた例って数多くあると思いますし、報告書(案)でも、次のような表現があります。

これまで私的な活動と捉えられがちであった県民による地域のための活動を、「公」の活動として捉え直そう
◆報告書(案)P.11から引用

 問題は、そのように「公」の活動として捉え直そうとするときに、「公の担い手となる“べき”だ」との価値観が強調されるのではないか、そして、それが一歩間違えると、ある種の特権意識(?)へとつながるのではないか、ってことです。

 例えば、「公を担わない者や、担うことができない者」を「義務を果たさない者」とみなしたりとか。
※見方は違いますが、報告書(案)にも類似(と思われる)の次の指摘があります。

NPO等の団体に関わっている人々は全人口からすれば少ない現状をふまえ、NPO等の団体に関わっていない人は「公」を担う資格がないことにはならないように
◆報告書(案)P.49から引用

 「公の担い手」意識を過剰に自負することで、「オレたちは、公を担っているんだ。だからこそ、オレたちは正しいんだ。」と言って、異なる意見を排除することにもつながらないかと憂慮するのです。

※良くも悪くも、このような意識は、従来から少なからず存在したのではないでしょうか。適切な例かどうかわかりませんが、「行政の無謬性」との言葉などが一例にあげられると思います。


、、、ここまで、ちょっと長文すぎかなって感じがしますので、とりあえずはここまでに。