立憲主義

 立憲主義とは、人民支配を政府の恣意にゆだねず、それになんらかの抑制をもうける体制である。政府に対する抑制として、近代以降の立憲主義に共通してみられるのは、(1)「法による行政」の原理と、(2)「責任政治」の原理である。

  • 「法による行政」とは、法を手段として人民支配を行うことではなく、法をもって政府の支配活動に対する制約とし、政府は法の枠内で、かつ法に違反しない限りにおいてのみ、支配活動をなしうるとするもの。法の内容を、被治者の生命・自由・財産・幸福等が不当に侵害されないようなものとすることによって、立憲主義の制度目的を確保しようとするわけである。そして、このような「法による行政」を現実に行うために、立憲主義は、立法に対する国民代表議会の決定的関与と、政府から独立した裁判所という体制を要求する。これをあわせて「権力分立」という。

 この権力分立については、単に権力を分立するだけであれば、アリストテレスの昔からあったものであるが、「被治者の権利保障という目的のもとに」権力を分立するという考え方は、モンテスキューの「法の精神」が紹介したものである。

以下は、「法の精神〈上〉 (岩波文庫)」より抜粋。

第2部 第11編 国制との関係において政治的自由を形成する法律について
第6章 イギリスの国制について
 各国家には、三種の権力、つまり、立法権力、万民法に属する事項の執行権力および公民法に属する事項の執行権力がある。
 第一の権力によって、君公または役人は一時的もしくは永続的に法律を定め、また、すでに作られている法律を修正もしくは廃止する。第二の権力によって、彼は講和または戦争をし、外交使節を派遣または接受し、安全を確立し、侵略を予防する。第三の権力によって、彼は犯罪を罰し、あるいは、諸個人間の紛争を裁く。この最後の権力を人は裁判権力と呼び、他の執行権力を単に国家の執行権力と呼ぶであろう。
 公民における政治的自由とは、各人が自己の安全についてもつ確信から生ずる精神の静穏である。そして、この自由を得るためには、公民が他の公民を恐れることのありえないような政体にしなければならない。
 同一の人間あるいは同一の役職者団体において立法権力と執行権力とが結合されるとき、自由は全く存在しない。なぜなら、同一の君主または同一の元老院が暴君的な法律を作り、暴君的にそれを執行する恐れがありうるからである。
 裁判権力が立法権力や執行権力と分離されていなければ、自由はやはり存在しない。もしこの権力が立法権力と結合されれば、公民の生命と自由に関する権力は恣意的となろう。なぜなら、裁判役が立法者となるからである。もしこの権力が執行権力と結合されれば、裁判役は圧制者の力をもちうるであろう。
 もしも同一の人間、または、貴族もしくは人民の有力者の同一の団体が、これら三つの権力、すなわち、法律を作る権力、公的な決定を執行する権力、犯罪や個人間の紛争を裁判する権力を行使するならば、すべては失われるであろう。

  • 「責任政治の原理」とは、すべての政治的決定に責任を負うものの存在を要求し、その責任の追求(批判や批難)を可能にするという考え方。ここでの責任には次のようなものがある。
    1. 法的責任・・法廷された一定の要件・効果のもとに特定の訴訟手続によって追及されるもの。 ex.国家賠償法行政事件訴訟法など
    2. 政治的責任・・公的に組織化されたかたちで批判の可能性を確保するもの。あらゆる国政上の行為について、いつでも対象とすることができる。 ex.任期制、公選制など
    3. 社会的責任・・組織化・制度化されないかたちで批判の可能性が確保されるもの。 ex.新聞、集会など

 これらのうち政治的責任に係る制度において、注目すべき制度が大臣責任制。君主制憲法の場合、君主には任期がなく、また無答責の地位を保障するのが通例である。すると、もし君主に単独の決定権を認めるなら、それに対して責任を問うことができないから、責任政治の原理が崩れることになる。そこで、君主には単独の決定権を認めず、その行為が法的に有効とされるためには君主を補佐する大臣の同意があることを要件とし、その決定について大臣に責任を問うことができるとするのが大臣責任制のそもそもの始まりである。
 では、どうやって大臣の責任を問うのか。

    1. 議会における質問とそれに対する大臣の答弁
    2. 大臣弾劾制
    3. 議院内閣制

 日本では、このうち大臣弾劾制が一度も採用されたことがない。明治憲法時は、議院内閣制に移行することを排除するために議会における大臣の答弁責任で足りるという立場をとり、「外見的立憲主義」と揶揄されることがあった。また、現行憲法では、既に議院内閣制を採用しているため、大臣弾劾制をとる意味が希薄となる。