スッキリはほどほどに(改訂版)【T】

■作者は、スッキリした状態をあまりに追求すると、社会の活力や寛容さが失われるとする。そのため、「スッキリはほどほどに」がいいと主張している。この主張は、社会が成熟し、個人の価値観が多様化した現在においては、確かに説得力を持ち得る。スッキリを求めすぎると、どうしても多様な価値観が存在することゆえの対立が生じることになるだろう。
■しかし、「完全なスッキリ」を求めざるを得ないと考えられる分野もある。たとえば、人の健康や身体の安全に関わる分野である。果たして、このような分野についても、作者の言うとおり「ほどほど」で良いと言えるのだろうか。
■具体的に、ガン患者に対する告知にかかる問題を検討する。この問題においては、ガン患者本人に告知することは、本人の生きがいを奪うことにつながりかねないとして、反対の立場をとる者もいる。これは、たとえ本人が自らの身体の状態を明確に把握したいと希望しても、「ほどほど」にしか教えない、または、全く事実を知らせないことが、患者本人の気力を失わせないという配慮だと主張するのである。
■それに対して、ガン告知はすべきだと主張する者もいる。この主張は、患者本人には、自己の生のあり方を主体的に決定する権利があることを根拠とする。自己決定権を行使するためには、曖昧な情報を得ても意味はない。患者本人が、自らの病名・病状と、これから医師が行おうとしている治療に関する情報を知ることができて初めて、患者本人にとっての「善き生」の選択がなされるというのである。すなわち、患者本人が、自分にとっての危険性、その他の治療法、各治療後の状態予測について知りたいと願い、そして、その情報に基づき、医師に対し質問を繰り返すなどして、色々な治療法の長所短所を把握して「スッキリ」することこそが、ライフスタイルの主体的な決定の際に求められると主張する。そして、この主張が、現在では、一般的と考えられる。
■もちろん、患者本人が知りたくないと明言している場合、その意向を無視することは許されない。しかし、自己決定に関わる場面では、本人が「スッキリ」するかどうかこそが問題となる。このような例を鑑みると、作者の主張は全てに通じるとは言い難く、「スッキリは完全に」がいい場面もありうると言えるのである。