日本における公と私【T】

【1】
■従来は、何が「公」で何が「私」かは、双方の実態が変わることなく存在すると考えられていた。しかし、実際は、時代や場所が変われば、何が「公」で、何が「私」かは、変わるのである。
■つまり、公私の区分に客観的な基準はなく、どこかで誰かによって何かのために決定されている。それゆえ、両者は「私」だったのものが「公」になったり、そこからさらに「私」に戻ったりするし、また、その逆もありうる関係なのである。
■こうした両者の関係は、たとえば、労働組合が強い昔には失業問題は公的な問題だったのが、80年代からの新保守主義的な考え方により、自助努力という私的な問題に変わったように、誰がその境界を決めるのかという力関係に左右されている。その要因を顕在化させているもののひとつにメディアがあり、これが「公」と「私」を幾重にも媒介する例もあるのだ。


【2】
■「公私」の境界は、その問題が存在する時代や場所などに依存的である。その時々の状況や誰が関与しているかによって、その境界が移動する。
■たとえば、大した価値がない蒲団を、訪問販売により高値で売りつけるという消費者問題を考えてみる。
■まず、この蒲団の売買は、あくまで当事者間の私的契約に基づくものであるから、私的紛争でしかありえない。いくら多額の損害を被ったからといって、誰も救済してくれない。自ら裁判所に訴え出て、判決をもらうことで解決を図ることぐらいである。
■しかし、同様の蒲団売買の事例が数多く起きたらどうであろう。被害者全員が泣き寝入りするとも、弁護士に紛争解決を依頼するとも、現状では考え難い。通常は、消費者相談センターなどの公的機関に相談に行くと考えられる。この場合、まだ私的な個々の相談でしかないだろう。だが、同様の事例がさらに増加したら、ついには公的機関が専用相談窓口を設けるといったことは、よくあることだ。ここで、全くの私的紛争だったものが、一部公的問題として採り上げられるに至ったといえよう。
■そして、それでもまだ同様の事例の発生が続くとしたら、それ以上の損害の発生を防ぐため、法律による規制が求められると考えられる。このように、国家権力を背景とした取締りが求められるようになって、ほとんど公的問題になったといえるだろう。
■もちろん、法制化という公的問題となるまでには、多くの要因が必要とされる。たとえば、実際の被害者の声であり、弁護団の結成であり、政治家の働きかけである。しかし、新聞やテレビの報道が取り上げることで、多数の人びとの問題意識に訴えかけ、同情と共感、解決要求の世論が形成されるという、メディアによる促進効果も見逃せない要因である。
■以上のようにして、私的問題が公的問題へと、その公私の境界が移動する事例があげられるが、この例は公となったことで終わりでないとも指摘できる。たとえば、制定された法を用いるとしても、個別の裁判において、その規定をどう解釈するかは、各々の具体的事実に基づく私的な主張がなされるであろう。また、そうした私的な主張が積み重なり、一定の妥当性を持てば、再び法の規定に反映することもありうるのである。
■このように、「公私」はお互い独立したものではなく、お互いに相手を自らに含んでいるものだといえる。だからこそ、時、場所、人、そして目的によって、「公私」の評価が異なるのである。それゆえに「公私」に関しては、境界を引くという態度ではなく、いずれに重点を置くのかという態度が必要とされるのである。