国民国家とボランティアが行う公共的行為【北海道】

■著者は、公共性の実現は、国民国家が行う公共的行為によるべきものと考えている。しかし、それだけでは不足があるので、ボランティアが行う公共的行為も不可欠だとする。
■このうち、前者は「サービス」であって、必ず行われなければならないという命令的、義務的側面が常に伴うと考えている。なぜなら、この「サービス」がなくなると、すぐに社会生活が成立しなくなることもあり得るため、恒常的な実現が求められるからである。
■それに対して、後者は必ずしも行われなければならないわけではないと考えている。それどころか役に立たない場合もあるとするのだ。心からの「止むに止まれぬ」という自発的意思が伴っているだけであって、命令的、義務的側面は一切存在しないと考えているのだ。そこには、単なる「義務」と「自由」の対比に止まらない違いがあるといえ、著者は、これこそが両者の違いだと指摘するのである。
■そして、著者は、この違いを、前者が「公共性の実現」という目的を初めから持つことに対し、後者が「目的」以前のところから始まることから生じてくるものだとする。
■つまり、目的が初めにあって、それに則して行為が生じるのが前者と考える。対して、目的以前に「止むに止まれぬ」気持ちが初めにあって、自発的行為が生じることで、公共性を獲得していくのが後者と考えるのである。
公共哲学〈7〉中間集団が開く公共性 公共哲学〈7〉中間集団が開く公共性/鳥越皓之「ボランタリーな行為と社会秩序」