喫煙の論理と喫煙の文化【岡山】

嫌煙権を求める主張とは、本来的には、喫煙の自由を全面的に否定することにつながる。このことに対して、自己決定の論理を基礎にした自由主義的なパラダイムで喫煙を擁護しようとしても、喫煙派が勝利する可能性は小さい。
■なぜならば、この自己決定の論理は、個人の自由な選択であるということそれ自体に価値を見出す。しかし、次に掲げる理由から、本当に自由な選択であるのかについて疑問符があるからである。
■まず、喫煙に関して、たばこ会社が喫煙のリスクに関する正確な情報を開示していないため、喫煙するか否かの決定が十分な知識を有した上で行われていない。また、ニコチンの依存性により、喫煙が自由意志に基づくものとはいえなくなる。そして、初回喫煙時に未成年であることが、十分な判断能力をもたないのだ。
■さらに、他に決定的な理由が挙げられる。これは、純粋な自己決定がそもそも存在しないというものである。これらの理由により、自己決定の論理に基づく、喫煙擁護自体に無理があるのである。
■実際の訴訟において、法的に喫煙の自由が認められた要因は、受任限度論である。これは、「デフォルト/例外」図式に依拠して判断されるものであり、喫煙が一般的であったかつては、嫌煙側が例外であったが、現在は喫煙側が例外になりつつあるのだ。
■しかし、こうした自己決定の論理や、受任限度論のみに焦点を合わせることは避けなければならない。なぜならば、文化としての喫煙、アイデンティティの源泉としての喫煙という理解を見過ごすことになるからである。
■喫煙は歴史的にも様々な文化的意味を有している。喫煙者を社会的劣等者と烙印を押すことにより、こうした文化を崩壊せしめることは、法と文化が最も不幸な形で関わることだと言えよう。
たばこ訴訟の法社会学―現代の法と裁判の解読に向けて (SEKAISHISO SEMINAR) たばこ訴訟の法社会学―現代の法と裁判の解読に向けて (SEKAISHISO SEMINAR)/佐藤憲一「喫煙の論理と喫煙の文化」