21世紀の日本社会の理想像【I】

■21世紀の日本社会においては、これまでの結果責任*1のみを主体としたあり方では、最早よい結果が生まれることすらないと考える。大切なことは、責任倫理*2や心情倫理*3を重視することであり、これらを社会全体に浸透させていくことによって、理想像に近づいていくと考えるのである。
■従来の日本社会は、少なからず結果責任に重点を置いたあり方であったといえる。政治においては、政権与党の圧倒的一党支配が長らく続いたことにより、選挙時の公約が口約束に過ぎない、政策実施に際しての説明責任が伴わない、事後的な評価をきちんと行うこともないといった問題点が蓄積していったと指摘できる。これは、具体的には、現在の財政危機をある程度予見しながらも、国債発行を重ねていった財政運営が、ひとつの例としてあげられるだろう。
■また、経済においては、高度経済成長の時代背景に、とにかく利益さえあげれば良いとの考えのもと、自然の乱開発を行う、バブル景気時に地上げを行うといった後から振り返ってみると如何に先をみすえない活動をしていったのかと指摘できる。これも、具体的には、自らの工場がたれ流す廃水が人体にも影響を及ぼすであろうことを予見しながらも、そうした危険に対する早急な対策を講じなかった公害の事案が、ひとつの例としてあげられるだろう。
■そして、司法においては、国家三権の一翼を担いながらも、他の立法・行政に対して消極的な態度をとったがために、違憲立法審査権がある意味有名無実化してしまったこと、行政訴訟に関しては原告の勝訴率がわずか1割程度しかないことといった問題点が指摘できる。これについても具体的には、行政訴訟において、そもそも原告の原告としての的確を認めないという形式的判断を数多く下したことにより、裁判を活用しようという意識を低下させたという見方もあることを、ひとつの例としてあげることができるだろう。
■このように、日本社会は、政治・経済・司法ともに、これまで責任倫理及び心情倫理が希薄であって、結果責任ばかりに眼が向けられていたといえるのである。
■しかし、現在、世界はグローバル化への時代を迎え、日本社会もまた例外ではない。そして、市民社会が成熟したことにより、多種多様な価値観が生まれている。そうした世の中においては、「動機や過程がどうあれ」といった結果責任の考え方ではなく、その「動機や過程こそが重要」という責任倫理及び心情倫理の考え方が求められるのである。
■すなわち、政治においては、選挙時の公約は国民との契約(マニフェスト)として守られなければならないし、政策実施に際しては国民の納得を得るために充分な説明責任が求められるし、事後的評価を新規施策に反映していくことも考えなければならないであろう。
■また、経済においては、自然の枯渇を招かない開発または再生が必要とされ、リスクを冷静に分析した活動のあり方が求められるであろう。
■そして、司法においては、国家三権のうち、公平さを実現するための権力にふさわしく、実質的で積極的な違憲立法のあり方、行政訴訟の審理のあり方が求められよう。
■以上の指摘は、何も政治・経済・司法の場面に限られるものではない。21世紀の日本社会のあり方全てにつながっていくものなのである。政治は市民社会の意識の反映であるし、経済も市民生活の営みそのものである。そして、司法も今般の裁判員制度の導入に象徴されるように、一般の国民の参加により築かれていくものである。その他の日本社会における様々な場面においても、責任倫理及び心情倫理を基本としたあり方が、理想的な姿を形成していくと考えるのである。

*1:動機や過程がどうあれ、結果さえよければよいとする考え方

*2:予見しうる結果に対して責任を負うとする考え方

*3:道義的に危険な手段を用いる一切の行為を拒否する考え方