変革の時代と人権−日本社会の課題

 もー、第7回ですか。はやいですねぇ。本日のテーマは人権とのこと。大切なものだとは思うのですが、イマイチよくわからないという印象があるというのが本音かも。本日は、講師である近畿大学教授 北口末広 氏から、いろんな事例を紹介してもらいながら、じっくりはっきりばっちりお話していただきました。

※以下は、あくまで【情トラ】の個人的なメモです。事実誤認があるかもしれませんよっ。また、今回のお話は非常に多岐にわたるものであって、いくらまとめても足りないぐらいです(!?) それゆえ、エッセンス的な部分を【情トラ】なりに抜粋してまとめてみたメモですので、その旨ご了承くださいね。


 本日の話は「差別はいけない」だけでは終わるものではない。差別といっても、いろいろなケースが考えられるのであって、例えば、大学のサークルでモデルを募集するポスターに、「ブスお断り」と書いた場合と「美人歓迎」と書いた場合で、どういう違いがあるのか? 特に、人びとの意識が多様化し、科学技術の進歩も目覚ましい現代においては、何が差別かという基準も変化・発展している。そうした現状をふまえて、いろいろな場面における差別の基準、人権の基準というものを、明らかにしていくことも大切なのである。

 では、この基準をどう明確にしていくのか。これには、次のキーワードから考えることが有用である。すなわち、「何を」、「誰が誰に対して」、「いつ」、「何処で」、「なぜ」、「どういった方法で」という5W1Hである。このうち、「誰が誰に対して」という「関係」が最も重要なのであるが、これはこの関係性が流動的であるからこそである。

 セクハラを例にあげると、男性のA課長とB係長がいて、それぞれが女性のC課員に肩をもんだときに、CさんはAさんだけを「セクハラ」と訴えることは、何もおかしいことではない。CさんがBさんに好意をもっていれば、Bさんの行為はセクハラでもなんでもなく、単なるスキンシップとしかとらえられないからである。また、DさんとEさんが交際している時に手をつなぐことは自然なことであるが、Eさんが別れを決意した後にDさんが手をつなごうとしたら、「セクハラ」と言われても仕方がないことだと考えられる。

 このように、人と人の関係における判断基準は、絶対的なものではなく、流動的なものであるといえる。それゆえに、差別意識も、絶対的なものではなく、変えられる・改善できるものであるのだといえよう。そして、こうした考え方こそが、変革の時代において必要となる発想なのである。

 しかし、「システム」や「意識・感覚」は、いずれもが、いくら変えられるものだと考えたとしても、その思考の実践は難しい。どうしても、いったんシステムができあがってしまうと、それにとらわれてしまうし、いったん一つの考えが浮かぶと、それに基づく現実分析しかしなくなってしまうのである。こうした思考の壁を取り除くためには、「法などのシステムを変えることによって、行為を変化させ、態度を変容させ、意識を変えるという試み」と、「教育等によって気づきを芽生えさせ、新たな態度を形成させ、行動を変容させ、システム変革への提言につなげるという試み」を両立させ、その相乗効果を育むことが求められているのだ。

 人権は、単に思いやりというだけではない。人権は、自分を守るためのものでもあるのだ。そして、21世紀は「人権の世紀」とも言われるが、「人権を尊重しないともたない世紀」であると考え、今後、様々な社会の仕組みを変えていくことが、日本社会の課題であろう。


■【情トラ】感想
 うーーん、自分でまとめたものながら、、硬いまとめですねぇ。実際のお話は、もっとフランクで、もっと分かり易く、たいへん考えさせてくれるモノでありました。ジャンケン・シュミレーションも含めて。それを再現できない【情トラ】をお許しください!

 なお、今回のテーマは「人権」でしたが、お話自体は、何にでも応用できる話であると思った次第。社会の規制的システムが、意識・感覚・思考の規制や壁につながっていることは、何も人権に限った話ではないでしょう。そして、システムの変革が、意識・感覚・思考の壁を取り除くこともまた同様です。さらには、人権相談をベースにした実態把握機能及び課題設定機能をはじめとした多くの機能も、何の分野においても応用できるものでしょう。政策立案のホントの最前線の現場を垣間見たたなぁという満足感を得たとともに、多くのヒントや示唆を受けた本日のお話でした。