民主主義とは何か〜選挙の投票について考える

◆JLC/Cチーム発表−【情トラ】案/2004-12-23版

  • ■「民主主義」とは?

 民主主義の意味を辞書でひくと、次のように記載されている。

〔democracy〕人民が権力を所有し行使するという政治原理。権力が社会全体の構成員に合法的に与えられている政治形態。ギリシャ都市国家に発し、近代市民革命により一般化した。現代では、人間の自由や平等を尊重する立場をも示す(大辞林による。)。

 つまり、民主主義とは、人民が権力を持ち、行使することがその意味するところである、と言えよう。
 しかし、その「人民」とは誰かというと、現在の政治では、多数派意見がものを言い、少数派の意見は採用されるとは限らない。また、多数派だといってもその中には様々な考えが存在して、それらすべてが必ずしも政治等に反映されてはいない。つまり、すべての人びとが統治者であることはなく、ただ被統治者となっている現状ではないだろうか。

  • ■民主主義における「選挙の投票」の意味は?

 このように民主主義を考えると、選挙と投票を考察することが、まさに民主主義のあり方そのものを考察することにつながると考えられる。その理由は、次の2つによる。
 1つめは、「選挙」が基本的に多数決原理に基づいており、より多くの票を得た候補者(政党)が代表者となる仕組みであるため、「多数決原理がものを言い、少数派の意見は採用されるとは限らない」という民主主義の問題点を如実に反映しているからである。
 そして、2つめは、個々の「投票」には、何らかの意見が付されるわけではなく、単なる1票としかならないため、「多数派だとしても、その中には様々な考えが存在し、それらが必ずしも政治に反映されるとはいえない」という問題点を示しているからである。
 その他にも、「議論の後に下される決定に参加者は従わなければならない」という民主主義のルールに基づく決定方法のうち、現在において、最も規模が大きな制度が、選挙の投票であることも理由にあげられるだろう。また、民主主義の成熟度を測るとき、最もわかりやすい指標が選挙の投票率だという一般的な認識もある。
 そこで、本論考では、「民主主義とは何か」とのテーマのもと、「選挙の投票について考える」との副題を付け、あるべき民主主義の姿のひとつを探っていくこととする。

  • ■「今度の選挙に行きますか?」

 さて、「選挙の投票について考える」場合、避けられない議論が投票率の問題であろう。この問題は、先にもふれたように、民主主義の成熟度を測る指標という認識があることから、これまでも繰り返しメディアにとり上げられ、政党や候補者からも強く訴えられてきた。「低投票率を憂える」という問題が議論されてきたし、「投票に行きましょう」という訴えかけがなされてきたのである。
 実際に、私たちの周りにも、あなたたちの周りにも、「今度の選挙に行きますか?」と問われ、「行かない」と回答する人は、数多く存在する。近時の国政選挙投票率も60%に届かず(2003年衆議院議員選挙;59.86%、2004年参議院議員選挙;56.57%)、国際的にみても、決して高い投票率とはいえない。国や選挙によっては、80%や90%を超える投票率があるところも存在しているのである。

  • ■「行かない」人は、絶対に行かないのか?

 しかし、「今度の選挙の投票に行きますか?」と問われ、「行きません」と回答する人は、「選挙の投票へ行くことは、今後ありえない」とまで考えているのだろうか。次のデータをみてみよう。

◆表1:政治参加の形態と自己疎外(1996年)(%)
※なお、選択肢は次のとおり。
 ア:やっていく、やってみたい  イ:どちらでもない  ウ:関わりたくない
 政治参加の形態
 1.選挙で投票する  ア:89.0  イ: 5.8  ウ: 5.1
 2.請願書に署名する  ア:26.2  イ:29.7  ウ:44.2
 3.選挙運動を手伝う  ア: 8.2  イ:23.1  ウ:68.7
 4.地域のボランティア活動に参加する  ア:28.9  イ:25.9  ウ:45.1
 5.デモや集会に参加する  ア: 7.8  イ:20.2  ウ:71.9
 6.国や地域の問題で役所に相談する  ア:10.8  イ:28.1  ウ:61.1
 7.国や地方の議員に手紙を書く、電話をする  ア: 5.2  イ:23.3  ウ:71.5
 (データ:Japanese Elections and Democracy Study 1996)

 このデータでは、「選挙で投票する」ことを「やっていく、やってみたい」と回答した者が89%とほぼ9割を占めている。また、次のようなアンケートも実施してみた。

◆表2:アンケート『【500人アンケート】今後、選挙(国政選挙に限る。)へ投票に行くことがあると思いますか?』
 あると思う 455  ないと思う 45
  (アンケート:http://www.hatena.ne.jp/1099147748; 対象:全はてなユーザー、年齢:20代以上、実施時間:2004/10/30 23:49から2004/10/31 7:14まで)

 結果は、「今後、選挙(国政選挙に限る。)へ投票に行くことがあると思う」が、91%、「今後、選挙(国政選挙に限る。)へ投票に行くことがないと思う」が、9%であった。
 以上からすると、いずれの調査の結果も、今後の政治への関わりとして「選挙で投票するか」と問われ、約9割の人びとが、「行くことがあると思う」、「やっていく、やってみたい」と回答したことがわかる。これらの結果は、「無関心」が低投票率の原因だとよく言われる主張に疑問を感じさせる。全く関心がなければ、「選挙に行く」という発想自体がなくなるのではないか。果たして、これら9割の人びとの回答を、どう理解すればよいのであろうか。

  • ■「行くことがあると思う」人は、いつ行くのか?

 「行くことがあると思う」人は、「必ず行く」人ではない。「いつも行っている」人も確かにいるだろうが、いつもは行かないけれども、「何かがあれば行く」人、「何かが変われば行く」人などが多数を占めるはずである。
 ここで、注目したいのが、「表1」中「7.国や地方の議員に手紙を書く、電話をする」に対して「関わりたくない」と回答した人「71.5%」という数字である。この回答は、まさに政治家への「不信感」を表す数字であり、議員を選ぶ手段である選挙の投票に行く可能性は小さいことを示す根拠となるだろう。
 だが、逆に言えば、何らかの要因により、信頼できる政党や候補者を得られた場合にはじめて、その選挙の投票に行こうとするのではないだろうか。それが9割の人びとが回答した内容なのではないだろうか。

  • ■「不信感」は、どのようなとき払拭されるのか。

 こうした「不信感」は、何も日本だけではなく、世界的にも見られる傾向にある。ただ、日本の特徴として、政治への不信を招くスキャンダルが起きたその後に、クリーンさを持った政治家が政治的信頼を集めてきた。大都市の比較的豊かで、政治が生活と直接的には関係がない層から支持され、「悪いことをやるな」との訴えが、「選挙の投票」につながったとされているのである。
 こうした例で代表的なものが、ロッキード事件に対する「新自由クラブの躍進」、リクルート事件と消費税導入に対する「社会党のマドンナ・ブーム」、東京佐川急便事件や金丸氏脱税事件に対する「日本新党の躍進」、森喜朗首相(当時)の低支持率に対する「小泉純一郎(・田中眞紀子)ブーム」である。
 これらの例からは、「政治家不信を高めるスキャンダル」が発生した後に、その状況を刷新してくれそうな「期待を集めるクリーンな政治家」が登場すれば、「不信感」は払拭され、「信頼」を集めるのだとも考えられうる。しかし、そうしたブームは、一時的でしかなかったわけであり、恒常的な信頼を得られなかったこともまた事実だろう。すると、この場合における信頼は、本来的には求められるべき「信頼」ではなかったのであろうか。

  • ■「信頼」をどう考えるか。

 そもそも、信頼とは、どのように形成され得るものなのか。やはり、特定の集団に所属し、顔見知りとなることで形成されるのが、通常である。だが、この手法は、必ずしも良いとは言い切れない。なぜならば、どうしても特定化による既得権の発生及び腐敗が避けられないからである。もっといえば、特定集団の腐敗が生じたからこそ、不信感が生じたとさえ言えるわけである。
 この堂堂巡りの打破には、信頼を従来の「特定の関係に基づく信頼」ではなく、「特定化されない信頼」、つまり、「普遍的な信頼」として形成する必要があるだろう。そして、この普遍的な信頼こそが求められるべき「信頼」であるのではないか。

  • ■「普遍的信頼」とは。

 従来からの信頼は、特定化された人や集団内での濃密なコミュニケーションがあって形成される「特定の関係に基づく信頼」であった。対して、「特定化されない信頼」とは、たとえ異なる集団に属していても、異なる価値観を有していても、信頼し得る場合の「信頼」でも言うべきであろうか。例えば、災害時のボランティア活動などは、様々な人びとが集まり、色々な価値観を持つわけだが、災害復旧や被害者救済という明確な目的が存在するため、合意形成が容易い。このときに形成されるのが、「普遍的な信頼」だと考えるのである。
 要するに、人や組織に依存して、その関係性から信頼するのではなく、目的や理念に基づいて、それに対する評価から信頼するあり方が、「普遍的な信頼」である。評価が下がれば信頼はなくなり、特定化された人や組織に依存しているわけではないので、そこから離脱することにもなる。それゆえに「普遍的な信頼」は「絶対に続く信頼」とはならないわけであって、腐敗の危険を回避する。これは、まさに、先に掲げたスキャンダルに対し「NO」を突きつけた選挙の投票の例と一致するといえよう。

  • ■「選挙の投票」をどう考えるか。

 以上までの議論をまとめてみよう。

      1. 選挙の投票に行かないのは、無関心からではなく、信頼できるのであれば信頼したいとの思いも含んだ不信感からである。
      2. それゆえに、信頼できる(できそうな)政党または候補者が現れた場合には選挙の投票に行く可能性が高まる。
      3. その信頼は、特定の利害による「特定の関係に基づく信頼」の場合もあるし、目的への評価による「普遍的な信頼」の場合もある。
      4. 「特定の関係に基づく信頼」が低下している現在、今まで存在しなかった「普遍的な信頼」が高まる可能性もあるが、現時点では、ほとんどスキャンダルに対する拒否の意思表示としてのみ機能するだけである。

 このまとめをふまえて、信頼を示す制度としての「選挙の投票」を考えると、これは特定の場を必要とする制度ではないといえる。投票の秘密は保障され、特定の利害がなくても、争点評価により選択が可能である制度だからである。それゆえ、「選挙の投票」は、本来的に「普遍的な信頼」を表すのに適した制度とみることができるのではないか。
 従来、「特定の関係に基づく信頼」に基づき集票がなされてきたが、その癒着による腐敗によって、そうした「特定の関係に基づく信頼」は低下していくところとなった。この「特定の関係に基づく信頼」の縛りがなくなった今後は、目的や理念に対する評価による「普遍的な信頼」に基づき選挙の投票がなされる可能性が拡がっているし、そうあるべきだと考えられる。それは「普遍的な信頼」に基づくことこそが「選挙の投票」の本来のあり方と考えられるからである。
そして、普遍的な信頼による評価を重視することは、人びとの意見が意義あるものであるならば、採用され、または反映されることにもつながる。そうした変化によって、現在ある「すべての人びとが統治者であることはなく、ただ被統治者となっている現状」を少しでも克服し得るのではないだろうか。

  • ■民主主義とは何か。

 民主主義にはコストがかかるとされるが、「特定の関係に基づく信頼」だけに基づいて判断するのであれば、ほとんど努力を要さなくなる。たとえば、「上司があの候補者に入れろというから投票する」人や、「あの候補者がお金くれたから投票する」人もいることすらあるのである。
それが、「普遍的な信頼」に基づき判断しようとすれば、特別の努力を要することになる。情報収集から問題分析、争点理解、意見調整、意思決定、そして、実際の行動と事後確認というように、選挙の投票に際しても、多くの過程を経なければならなくなるのだ。
 しかし、自らが、単なる被統治者ではなく、統治者として権力を所有し行使するためには、こうした特別の努力を必要とすることを自覚しなければならない。もちろん、個々人の努力だけではなく、教育や訓練を行う社会環境の整備も必要であろう。
 以上の議論をふまえて、民主主義とは、特別のコストがかかることについて、個々人及び社会が自覚し、常に努力を怠らずに磨き上げていくものであると結論づけたい。