参加という概念

 参加という概念には、決定を行う者が誠実に応答するということを本質的に含んでいる。当事者の参加がお互い根拠をあげて主張の正しさを説得するという形で行われるところでは、応答も、どのようにその主張に説得されたかを示すという形で行われることになる。その説明が丁寧に行われることによって、当事者は、決定が恣意的に行われていないか批判的に吟味できるし、逆に、決定を行う側でも、そうして説明しなければならないという負担があることによって、当事者の理詰めの説得に注意深く耳を傾けることにもなるのである。さらに、この当事者の説得は相手方にも向けられていて、裁判官が説得される過程は、そのまま、完全な説得とはいかないまでも、自ずから妥当な判断が当事者にも見えてくる過程である。
■棚瀬孝雄『訴訟動員と司法参加―市民の法主体性と司法の正統性』(岩波書店,2003年)pp.238-239

 これは,訴訟という場における「参加という概念」を明らかにしたモノです。この「参加という概念」をベースにして,そして,以下のエントリなども参考にしながら,私の(現時点での)個人的な考えをツラツラとつらねていくことに。長すぎますけど。スミマセン。

 裁判所(というか各裁判官)の判断は基本的に個々のケースがすべてであってルールがあるとしても帰納的に(もちろん法規範そのものは別ですが)というのが原則です。例えばノーアクションレターなりガイドラインがあるとして、行政ではそれを当てはめては不合理な事例があるとしても、原則はまずはそれを変更してからでないとルールはルールとして尊重することになります。他方で司法ではそんなものは打ち捨てて個別の救済を最優先するのが行動原理となります。
http://www.bewaad.com/20060411.html#c30

 私が思うに,何故「司法ではそんなもの(ノーアクションレターなりガイドラインなりのルール)は打ち捨て」られるのかというと,その訴訟の場に参加した当事者によって,相手方及び裁判官が説得され(,自ずから妥当な判断が見えてく)るからこそ,ではないでしょうか(※もちろん,こうした準則は,行政庁の行為の当不当を確保するためのものなのであって,問題は,法規範そのものをどう解釈するのか,という点にあるということが,主な理由でもあるのでしょうけど。)。
 そして,こうした「参加という概念」は,何も訴訟(司法)の場に限らず,本質的に,政治・行政という場に妥当すべきであろうとの考えが,私個人にはあります。しかし,現実は,どうでしょうか。


 まず,行政という場については,次のような評価があります。

  • 行政は、ある意味、一種の裁判でもある
    • (そのような実質があるにもかかわらず)行政という名のもとに自由裁量を行ってきたのではないか

判例の意義と役割をめぐって/園部逸夫 元最高裁判事@同志社大学法科大学院 - 【情トラ】附゛録゛

 この点に関連して。確かに,次の説明には説得力があります。

 行政において、実体的な法理論・基準は、簡明、画一的なものであることが望ましく、例外はできる限り設けるべきではない、認めるべきではないという考え方が強い。行政は、明確な統一基準を事前に示して、その基準を一律・平等に事案に適用していくべきであるとされる。
 例外的な先例を設けると、行政(内部)自体において画一的な事案処理がスムーズに行いにくくなる。また、相手方に対してこれは例外的先例にあたるかもしれないという期待をもたせることになり行政上のトラブルを生む原因となる。
■村上政博『弁護士・役人・学者の仕事―体験的比較職業論』(弘文堂、1997年)p.109頁( Propos(2006-04-17) - [法務][総論]Re:実務屋からの弁明 から,孫引き )

 しかし,基準を一律・平等に事案に適用できないようなケースが出てきた場合において,そこで,単純に「例外は認められない」と画一的判断をすることで本当によいのかといえば,首を傾げたくなるような気がなくもありません。対して,「参加という概念」を実践して,当事者同士が充分に納得するような議論及び応答がなされ,それらを一般にも公開しておくこととしてはどうか(,それこそ判決文のように。)といえば,頷きたくなるような気持ちがあります。
 つまり,何も前者のように行うだけではなく,後者のように行えば,その結果が,当事者以外の者に対して「例外的先例にあたるかもしれないという期待をもたせる」ことは,ありえないのではないでしょうか。それに,ひょっとしたら,ただただ前者のように行うことは,一見そこには裁量などないと見せかけた「自由裁量行為」なのかもしれません。


 もっとも,こうした「参加という概念」に基づく手続の導入は,行政におけるスムーズな事務処理という観点からは,手数がかかり,迅速性や効率性とは全くもってかけはなれた議論だといえるのかもしれませんし,それを「そうではない」と否定することは,私にはできません。
 ですが,少なくとも,行政の現場においては,「参加という概念」を踏まえた「手続法的な規範意識」を持つ必要があるのではないか,ぐらいは主張したいと思うのです(特に,その本旨として住民自治を掲げた地方自治の現場においては。)。次のような見方もあることですし。

磯部: 現実の行政の現場における手続法的な規範意識といったら、残念ながらかなりお粗末なところも多く、もう恥ずかしいようなものですよね。
櫻井: ゼロに近いですね。
磯部: いや一生懸命やっておられるところもあるから、ゼロと言ってはちょっとお気の毒でしょうが、担当する部署によって温度差がものすごくあるのは事実で、およそ問題意識がなさそうに思えるところもあります。
■磯部力、櫻井敬子、神橋一彦「エンジョイ!行政法第1回 行政法ってつまらない?」法学教室307号(有斐閣,2006年)p.81

 なお,現在,行政不服審査法の改正が検討されているようですが,これは,「行政手続を、もっと司法手続のように扱う」ことで,「行政の現場における手続法的な規範意識」を高めようという狙いもありうるかもしれないなーなどと考えなくもない次第。
行政不服審査制度研究報告書(平成18年3月) - PDF


 それから,政治という場について。この場こそが,本来的に「参加という概念」が妥当するといえるはずでしょう。このことに関しては,多くを記しませんが,私の考えるところ,議会が「参加という概念」の中心的役割を果たす場であるでしょうし,さらには,次のようなことも考えられるといえるのでしょう。

 人的資源・資産の枯渇していく自治体現場を、人材の宝庫である住民の側がどのようにカバーして自治を創造していくのか
http://legalport.blog.ocn.ne.jp/jititaihoumu/2006/04/post_0ecc.html


 従来,司法レベルで救済されていた社会各層の要求や意見は,現在に至り,立法・行政レベルの政策形成過程においても,公正にくみ上げられるように要請されてきているのではないでしょうか。
 そうした要請に対応すべく,行政手続法の改正しかり,行政不服審査法の改正しかり,地方議会の活性化策しかり,何らかの「公的な場」が設けられ、そこで「関係当事者が公正な手続保障のもと,理性的な議論に参加」し,「それぞれの主張の正当性を広く社会一般の正義・衡平感覚に訴えて社会的コンセンサスの拡大・強化をはかりつつ」、「より正当で、かつ、公平な政策形成を目指す」という営みがなされる仕組みづくりが,図られつつあるのかもしれません。
■田中成明「現代型訴訟と政策形成機能」田中成明『現代社会と裁判―民事訴訟の位置と役割 (法哲学叢書)』(弘文堂・1996年)p.198 を参考にしました


 こうした営みは,正直言って,「非常にしんどい」取組みだといえるのかもしれません。もっとも,その過程が『相互主体的な意識と行動』によって紡ぎだされていくのであれば,このうえない充実感を得ることができる「楽しくて仕方がない」取組みなのかもしれません。
 ところで,次の「楽しさ」とは,どのような意味での楽しさなのでしょうかねぇ。

 法曹がやるのはしょせん法律の解釈にすぎないんだよ。それよりは役人になって法律をつくるほうが絶対に楽しいと思うね
http://www.seri.sakura.ne.jp/~branch/diary0604.shtml#0412

 非常にへそ曲がり(!?)の視点からみてみると,,「法律をつくる = 指針・方針を世に示す」こととしているのかもなぁ,どうなんだろうなぁ,わかんねぇなぁ,などと感じなくもないところです。
 しかし,「法律をつくる = 『相互主体的な意識と行動』によって社会的コンセンサスを紡ぎだす」ことだとすれば,それは,最早,「役人」だけの楽しみとはならないはず(だと,私は思わなくもないわけです,「相互」なのですから。)。特に,地方自治の現場であれば,そうした可能性が大きく存在しているのではないかなー,そうだと個人的には「少し嬉しいかも」と思う次第なのであります。
【追記】

 いろいろと心強いお言葉も。んで,思うのは,行政側,自治体職員さん側だけでやろうと思っても困難なんだろーということ。私が思うに,「参加という概念」を重視して,一方だけではなく他方の側も,そして,一方他方という区別をこえて地域社会というなかで「『相互主体的な意識と行動』で社会的コンセンサスを紡ぎだす」ことを目指すのであれば,何かよりよいものができるのではないかと。
 もっとも,この場合に,「動員」ということになっては,個人的に違和感がありますよ。難しいでしょうけど,「私的関心に基づく『自らのため』の行動でしかなかったものが、気がつけば,『地域社会のため』になっている」ような仕組みが構築できるのであれば,,などと考えていたりするわけです。
 たとえば,私の本体サイトなんて,最初は,自分が使うために作成したものなのでありますが,多くの方々からご利用いただいて,感謝されることすらあるのですから。しかし,今でも,基本は『自らのため』のWebサイトなのです。
 行政不服審査法の改正にしても,そう。最初は,怒鳴りこみからはじまるのかもしれません。しかし,こうした場を設け,充実させることで,少しでも「相互主体的な意識と行動」ができるのであれば,当事者だけではなく,もっとひろい何かを残すこともできるのではないかと。
 いや,しんどいでしょうよ,実際。ですが,行政・自治体の「外」からも,できうる限り「相互主体的な意識と行動」を伴って,関わりをもっていきたいと思っている(奇特な(?))存在がいることも,心の,どこかに,ぜひ。
【追記はここまで】


 以下は,余談めいた話。

何せ「行政法に強い弁護士になるために,法科大学院に来たんですから」と言ってみるテスト。

といっても,法科大学院においては,いわゆる自治体法務・行政法務の実務において通用するような教育にまでは手が回らないのが実情かも,とも実感はしています。
 しかし,学生本人次第という面も大きいはず。個人的な話で恐縮ですが,たとえば,併設の公共政策大学院での科目を履修したり(とある科目ですが。履修するなかでロー生は私だけですが。),いわゆる研究者コースの科目も履修できないか検討するなどして,法科大学院に限らない形で最大限に利用させていただこうとしています。また,図々しくも自治体職員のみなさんが主催されている研究会に参加させていただいたり,このようにして,Web 上でもあれやこれやと考えを巡らせてみたり,,などなど。このように考えると,「法科大学院で」だとか,「行政の現場で」だとか,その学ぶ場所は,それほど関係ないということもできるんじゃないかと思います。
 あと,学んだことが実務にそのままいかせないかどうかは,それが,たとえば手続的規範に係るところのものであれば,そのままいかせるのではないか,とも考えます。OJTが必要とされるのは,自由裁量を行う場面なのではないかと,今,そんなことを思ったり。
 それに,どのような場であれ,「相互主体的な意識と行動」で関わることのできる場がひろがれば,その場は,OJTの場となるでしょう(job とは言えないかもしれませんが。)。そして,人的資源・資産の枯渇していく自治体などは,そうした場をつくり,ひろげ,充実させなければならないのではないでしょうか。


 ま,とりあえずは,私的関心を覚える分野があれば,それを1件だけからで構いませんので,みなさんもパブリックコメントに取り組んでみませんか? (^ー^)