自然保護という思想(その1)【I】

【1】
■環境問題が注目を集めて以来、「人間と自然の共存」ということが言われるようになった。自然を征服する対象とみる西欧に比べ、日本では社寺林に見られるように、共存をうまく進めてきたかのように評価されることもある。
■しかし、実際の日本人の自然観は、原始的自然を苦手とするものであって、それが本当に自然との共存といえるのか疑問が残るところである。本来は、ありのままの自然こそを素晴らしいと評価する西欧人の感性の方が、人間と自然の共存には必要とされるのではないだろうか。
■こうしたなかで,人間とサルがお互いに我慢しあって各々住み分けをする試みは、人間とあらゆる自然の共生の一つの道を示唆するものなのである。


【2】
■人間と自然のあるべき姿とは、両者の共存であり、そして共栄であると考える。そのためには、原始的自然は出来る限り原始的なまま残す努力も必要とされるが、人間の知恵や技術により、自然が繁殖しやすいよう手を加えられることもまた必要とされよう。
■すべての生物の生きる権利は平等であるとの違憲は強い。確かに仏教の教えにあるように、人間だけではなく動植物の命も大切にするという考え方を信じる人は多い。しかし、だからといって、動植物をあるがままに放置すればよいということにはならない。絶滅寸前の生物には保護が必要であるし、有害動物には対策が求められるのである。高度経済成長時の日本でよく見られた乱開発は再び繰り返さないようにしなければならない。だが、保守の名の下の取組みはなされなければならないのである。
■ところが、この保守の考え方を強調すると、現在の日本においては、既に開発されて便益を受けている都会と、未開発ゆえに不便を強いられている田舎の対立が生じてくる。田舎も、自然との共存よりも開発による繁栄を求めたいという構図である。この対立については、やはり都会から田舎への富の再分配などによる共栄のあり方を模索することが必要だろう。
■また、知恵のある動物を残酷に殺すのはかわいそうだとか、自然保護に関する国際的な取り決めを定めた場合は、それを守るのが当然だといった倫理的意見も強い。これも確かにある種の説得力はもっている。しかし、両者ともに、各国各人により重要視する前提や基準が異なることも見逃せない。それゆえに、各々の文化的経済的背景を踏まえたうえで、合意を積み重ねていくことが必要だといえよう。
■この場合、現在の日本においては、資源が乏しいため、可能な限り、他国の開発に頼らざるを得ないという背景がある。この問題については、高度な技術力を基に各国とともに環境に配慮した開発方法を探る必要があるだろう。