民主主義とは何か〜選挙の投票について考える

◆JLC/Cチーム発表−【情トラ】案/2005-01-22版

  • 1.「民主主義」とは?

 民主主義の意味を辞書でひくと、次のように記載されている。

〔democracy〕人民が権力を所有し行使するという政治原理。権力が社会全体の構成員に合法的に与えられている政治形態。ギリシャ都市国家に発し、近代市民革命により一般化した。現代では、人間の自由や平等を尊重する立場をも示す(大辞林による。)。

 つまり、民主主義とは、人民が権力を持ち、行使することがその意味するところである、と言えよう。
 しかし、その「人民」とは誰かというと、現在の政治では、多数派意見がものを言い、少数派の意見は採用されるとは限らない。また、多数派だといってもその中には様々な考えが存在して、それらすべてが必ずしも政治等に反映されてはいない。つまり、すべての人びとが統治者であることはなく、ただ被統治者となっている現状ではないだろうか。

  • 2.民主主義における「選挙の投票」の意味は?

 このように民主主義を考えると、選挙と投票を考察することが、まさに民主主義のあり方そのものを考察することにつながると考えられる。その理由は、次の2つによる。
 1つめは、「選挙」が基本的に多数決原理に基づいており、より多くの票を得た候補者(政党)が代表者となる仕組みであるため、「多数決原理がものを言い、少数派の意見は採用されるとは限らない」という民主主義の問題点を如実に反映しているからである。
 そして、2つめは、個々の「投票」には、何らかの意見が付されるわけではなく、単なる1票としかならないため、「多数派だとしても、その中には様々な考えが存在し、それらが必ずしも政治に反映されるとはいえない」という問題点を示しているからである。
 その他にも、「議論の後に下される決定に参加者は従わなければならない」という民主主義のルールに基づく決定方法のうち、現在において、最も規模が大きな制度が、選挙の投票であることも理由にあげられるだろう。また、民主主義の成熟度を測るとき、最もわかりやすい指標が選挙の投票率だという一般的な認識もある。
 そこで、本論考では、「民主主義とは何か」とのテーマのもと、「選挙の投票について考える」との副題を付け、あるべき民主主義の姿のひとつを探っていくこととする。

  • 3.「今度の選挙に行きますか?」

 さて、「選挙の投票について考える」場合、避けられない議論が投票率の問題であろう。この問題は、先にもふれたように、民主主義の成熟度を測る指標という認識があることから、これまでも繰り返しメディアにとり上げられ、政党や候補者からも強く訴えられてきた。「低投票率を憂える」という問題が議論されてきたし、「投票に行きましょう」という訴えかけがなされてきたのである。
 実際に、私たちの周りにも、あなたたちの周りにも、「今度の選挙に行きますか?」と問われ、「行かない」と回答する人は、数多く存在する。近時の国政選挙投票率も60%に届かず(2003年衆議院議員選挙;59.86%、2004年参議院議員選挙;56.57%)、国際的にみても、決して高い投票率とはいえない。国や選挙によっては、80%や90%を超える投票率があるところも存在しているのである。

  • 4.「行かない」人は、絶対に行かないのか?

 しかし、「今度の選挙の投票に行きますか?」と問われ、「行きません」と回答する人は、「選挙の投票へ行くことは、今後ありえない」とまで考えているのだろうか。次のデータをみてみよう。

◆表1:政治参加の形態と自己疎外(1996年)(%)
※なお、選択肢は次のとおり。
 ア:やっていく、やってみたい  イ:どちらでもない  ウ:関わりたくない
 政治参加の形態
 1.選挙で投票する  ア:89.0  イ: 5.8  ウ: 5.1
 2.請願書に署名する  ア:26.2  イ:29.7  ウ:44.2
 3.選挙運動を手伝う  ア: 8.2  イ:23.1  ウ:68.7
 4.地域のボランティア活動に参加する  ア:28.9  イ:25.9  ウ:45.1
 5.デモや集会に参加する  ア: 7.8  イ:20.2  ウ:71.9
 6.国や地域の問題で役所に相談する  ア:10.8  イ:28.1  ウ:61.1
 7.国や地方の議員に手紙を書く、電話をする  ア: 5.2  イ:23.3  ウ:71.5
 (データ:Japanese Elections and Democracy Study 1996)

 このデータでは、「選挙で投票する」ことを「やっていく、やってみたい」と回答した者が89%とほぼ9割を占めている。また、次のようなアンケートも実施してみた。

◆表2:アンケート『【500人アンケート】今後、選挙(国政選挙に限る。)へ投票に行くことがあると思いますか?』
 あると思う 455  ないと思う 45
  (アンケート:http://www.hatena.ne.jp/1099147748; 対象:全はてなユーザー、年齢:20代以上、実施時間:2004/10/30 23:49から2004/10/31 7:14まで)

 結果は、「今後、選挙(国政選挙に限る。)へ投票に行くことがあると思う」が、91%、「今後、選挙(国政選挙に限る。)へ投票に行くことがないと思う」が、9%であった。
 以上からすると、いずれの調査の結果も、今後の政治への関わりとして「選挙で投票するか」と問われ、約9割の人びとが、「行くことがあると思う」、「やっていく、やってみたい」と回答したことがわかる。これらの結果は、「無関心」が低投票率の原因だとよく言われる主張に疑問を感じさせる。全く関心がなければ、「選挙に行く」という発想自体がなくなるのではないか。果たして、これら9割の人びとの回答を、どう理解すればよいのであろうか。

  • 5.「行くことがあると思う」人は、いつ行くのか?

 「行くことがあると思う」人は、「必ず行く」人ではない。「いつも行っている」人も確かにいるだろうが、いつもは行かないけれども、「何かがあれば行く」人、「何かが変われば行く」人などが多数を占めるはずである。
 ここで、注目したいのが、「表1」中「7.国や地方の議員に手紙を書く、電話をする」に対して「関わりたくない」と回答した人「71.5%」という数字である。この回答は、まさに政治家への「不信感」を表す数字であり、議員を選ぶ手段である選挙の投票に行く可能性は小さいことを示す根拠となるだろう。
 だが、逆に言えば、何らかの要因により、信頼できる政党や候補者を得られた場合にはじめて、その選挙の投票に行こうとするのではないだろうか。それが9割の人びとが回答した内容なのではないだろうか。

  • 6.「不信感」は、どのようなとき払拭されるのか。

 こうした「不信感」は、何も日本だけではなく、世界的にも見られる傾向にある。ただ、日本の特徴として、政治への不信を招くスキャンダルが起きたその後に、クリーンさを持った政治家が政治的信頼を集めてきた。大都市の比較的豊かで、政治が生活と直接的には関係がない層から支持され、「悪いことをやるな」との訴えが、「選挙の投票」につながったとされているのである。
 こうした例で代表的なものが、ロッキード事件に対する「新自由クラブの躍進」、リクルート事件と消費税導入に対する「社会党のマドンナ・ブーム」、東京佐川急便事件や金丸氏脱税事件に対する「日本新党の躍進」、森喜朗首相(当時)の低支持率に対する「小泉純一郎(・田中眞紀子)ブーム」である。
 これらの例からは、「政治家不信を高めるスキャンダル」が発生した後に、その状況を刷新してくれそうな「期待を集めるクリーンな政治家」が登場すれば、「不信感」は払拭され、「信頼」を集めるのだとも考えられうる。しかし、そうしたブームは、一時的でしかなかったわけであり、恒常的な信頼を得られなかったこともまた事実だろう。すると、この場合における信頼は、本来的には求められるべき「信頼」ではなかったのであろうか。

  • 7.「信頼」をどう考えるか。

 そもそも、信頼とは、どのように形成され得るものなのか。やはり、特定の集団に所属し、顔見知りになることで形成されていくことが、通常であろう。だが、この手法は、必ずしも良いとは言い切れない。なぜならば、どうしても特定化による既得権の発生及び腐敗が避けられないからである。もっといえば、特定集団の腐敗が生じたからこそ、その特定集団に属していない人びとの不信感が生じたとさえいえるわけである。
 この堂堂巡りの打破には、信頼を従来からの「特定の関係に依存する信頼」ではなく、「特定化されない信頼」、つまり、「普遍的な信頼」として形成する必要があるだろう。そして、この「普遍的な信頼」こそが、求められるべき「信頼」であるのではないか。

  • 8.「普遍的な信頼」とは。

 従来からの信頼は、特定化された人びとや集団内の濃密なコミュニケーションがあって形成される「特定の関係に依存する信頼」であった。対して、「特定化されない信頼」とは、たとえ異なる集団に属していても、たとえ異なる価値観を有していても、信頼し得る場合の「信頼」とでもいうべきだろうか。たとえば、災害時のボランティア活動などは、何の利害関係も持たない様々な人びとが集まり、色々な価値観を持つわけだが、災害復旧や被害者救済という明確な目的が存在するため、合意形成が容易い。このときに形成されるのが、「普遍的な信頼」だと考えるのである。
 要するに、人や組織に依存して、その関係性から信頼するのではなく、目的や理念に基づいて、それに対する評価から信頼するあり方が、「普遍的な信頼」である。評価が下がれば信頼はなくなり、特定化された人や組織に依存しているわけではないので、そこから離脱することにもなる。それゆえに「普遍的な信頼」は「絶対的に続く信頼」とはならないわけであって、腐敗の危険を回避する。

  • 9.スキャンダル批判の選挙投票について

 これは、まさに、先に掲げたスキャンダルに対し「NO」を突きつけた選挙の投票の例と一致するといえよう。この例の場合においては、「政治家不信を高めるスキャンダル」に関連する特定化された関係に属していない「クリーンな政治家」による、その腐敗を刷新するとの訴えかけを人びとが高く評価することで、「信頼」が生まれている。ここでは、その支持者は、「特定の利害関係を持っているから」という理由では、当該政治家を評価していない。スキャンダルとの対比であるにせよ、その「クリーンさ」を最も大きな理由として評価しているのである。
 ただし、その「クリーンさ」も、それだけに終始すると、継続的で安定した支持を得ることにはつながらない。なぜならば、政治家に対する評価は、単に「スキャンダルに関連する特定化された関係に属するか、属しないか」ということだけではなく、本来的には、具体的な政策内容や政権運営のあり方こそが問われるからである。そして、人びとは、一旦「クリーンさ」を評価したからといって、そこで特定化された関係が築かれ、それに依存することになるわけではない。評価が下がってしまえば、その政治家への支持を取り下げることとなるのである。

  • 10.「選挙の投票」をどう考えるか。

 以上までの議論を、ここで一旦まとめてみよう。

      1. 選挙の投票に行かないのは、無関心からではなく、信頼できるのであれば信頼したいとの思いも含んだ不信感からである。
      2. それゆえに、信頼できる(できそうな)政党または候補者が現れた場合には選挙の投票に行く可能性が高まる。
      3. その信頼には、特定の利害に基づく「特定の関係に依存する信頼」の場合もあるし、目的への評価による「普遍的な信頼」の場合もある。ただし、日本において従来から存在していた信頼は、そのほとんどが「特定の関係に依存する信頼」であった。
      4. 「特定の関係に依存する信頼」は、その腐敗の危険性が指摘されるところとなったがために、それに代わって「普遍的な信頼」が形成される可能性が高まってきた。

 このまとめをふまえ、改めて、信頼を示す制度としての「選挙の投票」を考えることとしたい。この「選挙の投票」は、「特定の関係に依存した信頼」がなければ、人びとは「選挙の投票」ができないように、制度が構築されているかといえば、そうではない。
 確かに、これまで「選挙の投票」といって思い浮かぶのは、個人後援会の存在であり、各種利益団体による推薦であり、組織票という用語であって、「特定の関係に依存した信頼」を蓄積することが「選挙の投票」を集めることだと考えられてきた。
 しかし、人びとは、そうした「特定の関係に依存した信頼」を持たずとも投票することができる。この理由として、「候補者の名前を記入するだけで、投票が済むこと」、「投票に関して、誰にもその理由を説明する必要はないこと」、「投票の秘密が保障されていること」などが挙げられよう。つまり、人びとが、それぞれ一個人の決断によって行えることが、「選挙の投票」制度の特質だといえるのである。
 このように「特定の関係に依存する信頼」は、必ずしも必要とされるものではない。そればかりか、現在においては、その腐敗の危険性が指摘されるところとなった。とすると、何を判断基準とし、「選挙の投票」がなされるかを考えた場合、その腐敗の危険性が回避できるものでなければならないだろう。それゆえ、目的や理念に対する評価による「普遍的な信頼」に基づいて、「選挙の投票」がなされるべきだと考えられるのである。

  • 11.勝手連による選挙投票について

 以上のような「普遍的な信頼」に基づく「選挙の投票」に関し、近年における象徴的事例は、いわゆる「勝手連」の出現であろう。これは、その名のとおり、この人であれば、この人の理念・政策内容であれば信頼できると評価し、「勝手に」選挙応援するという活動形態である。この「勝手連」は、一般的には、一人の候補者を応援するからといって、何ら特定の利害関係を求めるものではなく、投票日が過ぎれば、その役割を終えるといった性格をもつ。また、たとえ活動途中であっても、やめたくなったら「勝手に」やめていいともされている。さらには、「勝手に」応援しているからこそ、候補者と対等の立場にたって、何かしら意見があれば伝えるし、批判もする。それは、その候補者を選挙で当選させるという大きな目標のためと考えるわけである。
 このような「勝手連」のあり方は、「ボランティア活動」のあり方と類似点が多いことも指摘できよう。ボランティア活動も、無料奉仕で福祉的なイメージで捉えられがちであるが、本来はあくまで自分のやりたいことを自分の意思に従って、特に見返りを求めずに社会的活動を行うこととされる。例えば、重油による海洋汚染の場合などには、その汚染がきれいになりさえすれば、役割を終えるといった性格をもつ。また、たとえ活動途中であっても、都合がつかなくなればやめていいともされるし、さらには、その重油撤去という大きな目標のためには、対等に意見を出し合う関係が築かれるともいえるのだ。
 こうした両者の類似性を鑑みた場合、「表1」中「4.地域のボランティア活動に参加する」に対して、「やっていく、やってみたい」と回答した人「28.9%」という数字は注目に値する。つまり、「ボランティア活動」と「勝手連」とのあり方が似ているとして、「ボランティア活動」に対して「やっていく、やってみたい」と回答した人が、「勝手連」に対してどう考えているのかは、たいへん興味を感じるところではないだろうか。

  • 12.民主主義とは何か。

 民主主義はコストがかかるといわれる。しかし、「特定の関係に依存した信頼」だけに基づいて判断するのであれば、ほとんど努力を要さなくなる。たとえば、「上司があの候補者に入れろというから投票する」人や、「あの候補者がお金くれたから投票する」人すらいるのである。そこには自らの判断が存在せず、まさに特定の関係に依存するだけの判断しかないのである。
 それが、「普遍的な信頼」に基づき判断しようとすれば、特別の努力を要することになる。特定の関係に依存しない分、主体的に判断する必要が生まれるのである。それこそ、選挙の投票に際しても情報収集から問題分析、争点理解、意見調整、意思決定、そして、実際の行動と事後確認というように、多くの過程を経なければならなくなるのだ。
 しかし、自らが、単なる被統治者ではなく、統治者として権力を所有し行使するためには、こうした特別の努力を必要とすることを自覚しなければならない。もちろん、個々人の努力だけではなく、教育や訓練を行う社会環境の整備も必要であろう。
 また、「普遍的な信頼」に基づき判断するための評価を重視することは、意見を表明して、もし、その表明された意見が意義あるものであるならば、その意見が採用され、または反映される可能性にもつながる。そして、こうしたことは、従来の単なる「利害関係に過ぎなかった人びとの関係」を、本来的な「信頼関係に基づく人びとの関係」として、築きなおすのではないだろうか。本論考の冒頭に掲げた問題点、「すべての人びとが統治者であることはなく、ただ被統治者となっている現状」を、少しでも克服し得ることにつながるのではないだろうか。
 以上により、民主主義とは、特別のコストがかかることについて、個々人及び社会が自覚し、常に努力を怠らずに磨き上げていくものであると結論づけることとしたい。

  • 13.民主主義の実践のために

 最後に、それならば、どのようにして、民主主義には特別のコストがかかると人びとや社会が自覚し、常に努力を怠らずに磨き上げていくこととするのか。このことの具体的な方策のひとつとして、裁判員制度を採り上げる。
 2009年から開始される裁判員制度は、司法が重要な国家権力のひとつであるにもかかわらず、今まで専門家だけにその役割を任せてきたことが国民主権に反するとの考えから、その導入が決定された制度である。要するに、国民による主体的判断が存在せず、特定の専門家に依存してきただけであった裁判に、専門家ではない一般人も参加して判断の一翼を担い、自らの責任において判断を下させるという制度なのである。
 もちろん、問題点もある。まさに専門知識がないという気後れゆえに、重い量刑判断を避けてしまうことや、そもそも有罪判断を行わないことすらも考えられる。また、逆に、世間の声やマスコミ報道などに過剰に反応して、不当に重い量刑を科してしまうことや、無理やりに有罪判断することも考えられるのである。
 しかし、こうした問題点があるからといって、今までどおりに、専門家である法曹に任せたままでは、法曹同士お互いに個別案件で対立しながらも、ある意味専門家同士という馴れや甘えが生まれ、腐敗の危険が避けられないともいえる。その腐敗の危険を、普通の市民がなかに入ることにより、法曹自身の内的緊張を維持する趣旨を裁判員制度は含んでいるのである。
 それゆえ、この裁判員制度の導入は、民主主義の実践に関し歓迎すべきことであるし、この制度の活用により「普遍的な信頼」の形成がはかられることが期待されるのである。
 なお、裁判員は無作為の抽選によって選ばれることから、誰にも避けられないものであるため、すべからく人びとの自覚を促すことへとつながると考えられる。そして、裁判員の判断は、被告人の一生を左右することから、そうした社会が決めたルールに基づく力に、自分もまた荷担しているとの事実を明らかにし、必然的に人びとの責任を問うことになるとも考えられる。
 だが、そうであるがゆえに、個人一人ひとりが、それぞれ強度のある「普遍的な信頼」を形成し得るところなのである。