救命艇倫理と共有地の悲劇【関西学院】

■ハーディンの「救命艇倫理」とは、人類は複数の救命艇に乗っており、比較的豊かな国の救命艇と貧しい国の救命艇にわかれると喩えるものである。
■前者には、いっぱいの人が乗っているが、後者には、さらに多くの人が乗っており、それどころか常に海上に溢れ落ち、豊かな救命艇に引き上げてはもらえないかと願っている。しかし、豊かな救命艇も沈没の可能性があるため、すべての人を救うわけにもいかないし、一部を乗せるとしても誰を乗せるかの問題が生じる。そこからハーディンは、先進国は現在の暮らしを維持しつつ、途上国が先進国の仲間に入ることを拒絶して人類の存続を図ることを示唆するのだ。
■このハーディンの「救命艇倫理」を支える論理としては、まず、いわゆる「緊急避難」の原則が適用されると考えている。
■また、外敵が存在せず、政治的・文化的多様性がない「世界統一国家」は成立しえないことを理由に、共有地の悲劇が続くとも考えている。
■そして、ダーウィンの生存闘争と自然選択の思想を基盤としており、大切なことはその土地の扶養能力にみあった個体数を維持することだとする考え方も有する。
■さらには、「飢えた人の子孫もまた飢える」という固定的な図式も用いている。これは、同種が同種を産み、それが自然によって選択されるという進化論上の原則を非常に単純に当てはめた考え方である。
■以上の論理によって、ハーディンは、共有地の悲劇は回避できないとしているのであるが、筆者は次のように反論する。まず、「緊急避難」の原則の適用については、ハーディンの比喩では先進国が現在の生活を維持することが前提となっていることを問題点として指摘する。つまり、途上国を救う術が全くないわけではなく、そのことを検討することもなく、緊急避難とすることは誤りだと主張する。
■また、「世界統一国家」が成立しないことにより、資源問題や環境問題の危機を回避できないことについては、必要なのは統一国家ではなく協議決定機関だと主張する。
■そして、土地の扶養能力にみあった個体数を維持する考え方については、土地の扶養能力に変化がないという前提に立つことに誤りがあると指摘する。人間社会の場合その土地の扶養能力は国土面積や緑地面積では決まらず、技術力の向上などによっても大きく変動する。そのため、悲劇の拡大は防げると主張する。
■さらには、「飢えた人の子孫もまた飢える」という考えについては、自然選択原理を単純に人間社会に適用することは、基本的に混乱した議論であるとする。
■これらの反論に基づいて、筆者は、先進国および途上国は次に掲げるような方策によって、「共有地の悲劇」を回避しながら「宇宙船地球号」を維持できると言う。
■まず、先進国が現在の消費生活を放棄することが、ひとつの方策である。今後の資源の枯渇を防ぐために、先進国にこそ、大幅な省エネルギーや自制が求められるのである。
■また、資源利用や環境基準の設定といった重要課題に関する協議決定機関の実現である。これは既に一部現実化されてもいるし、政治的・文化的多様性を損なうものではないため、先進国も途上国も含めた協議の場の必要性を訴えている。
■そして、途上国に対して先進国が行う援助の形を、農業技術支援のように途上国の扶養能力を高めるようなものにすることである。
■さらに、途上国で人口増加が激しい原因は、第一段階の人口増加により生まれた富を先進国が吸い上げたために、第二段階の生活向上が達成されず高い出生率が維持されたままになったこととする。それゆえに、先進国こそが重大な責任を負っていると主張するのである。
■ハーディンの考え方は、いわば先進国の利己的で無責任な主張である。たとえ、開発を行ってきた当時は資源問題や環境問題について考える必要がなかったとしても、先進国の行為は正当なものだとは言えないし、また、先進国の責任は残る。今後、先進国は途上国との共存共栄のために主導的な役割を果たしていく必要があるだろうし、途上国は先進国の協力のもとに自らの扶養能力の向上を図っている必要があると言えるのである。