三方一両損と三方一両得【同志社】

奉行所に持ち込まれた落し主と拾い主の争いは、三両の所有権がそれぞれ相手側にあるという主張の対立である。各々が相手方の主張を受け入れさえすれば、三両を手に入れることができるにもかかわらず、それを拒否しているという対立である。そのため、この対立を解決するにあたっては、両者ともに三両を手に入れることができたという前提から考える必要があるだろう。大岡越前守の三方一両損とは、結局、両者が最終的に手に入れることができたのは二両ずつであることから、自分の主張を取り下げさえすれば手に入った三両から一両の損だと評価したものなのである。
■このように考えると、大八のいう三方一両得とは、本来的には、落し主と拾い主の二方二両損としか評価できないものである。そして、大岡の一方だけが一両得となるものである。三方一両得といいながら、三方に全くバランスのとれた結論になっていないのである。
奉行所(裁判所)とは、あくまで当事者間で解決がつかなかった紛争に関して、両者ともに納得がいくように合理的な解決を提示するところである。そのためには、出来る限り双方の利益を最大化し、根拠のない損害を与えることがないよう事件は扱われなければならない。
■本件の事案にあてはめてみた場合、当事者双方の利益を最大化するということは、結果的に、双方の手元に残る額が多いほどよいと言うことができよう。つまり、三方一両得の理論よりも三方一両損の理論のほうが、当事者の利益に資するのである。
■そして、根拠のない損害を与えないということは、確かに、大岡が一両得となることは裁判の費用として当然の報酬だという考え方もあるが、果たして、奉行所がそうした報酬を得ることが妥当なのかという問題が残る。具体的には、何故一両なのか、単に一両残ったからそれを奉行所が取り上げただけなのではないか、といった不当性の問題が指摘できよう。要するに、三方一両得の理論には不当な奉行所の報酬という問題があり、三方一両損の理論には合理的な奉行所の判断という評価ができるのである。
■以上のように、結果として、紛争当事者の手元に残った額の多寡及び奉行所が介在する方法の妥当性の有無に関する違いから、大八がいう三方一両得の理論よりも、大岡がとった三方一両損の理論のほうが、合理的かつ納得しやすい解決方法だということができるのである。
筒井康隆/横車の大八・最初の混線 [新潮カセットブック/Tー1ー5] (新潮カセットブック T- 1-5)筒井康隆「横車の大八」