国際法の普遍性と相対性

 京都大学にて、2004年秋季法学会学術講演会にいってきました。まずは、杉原高嶺教授による講演から。以下は、【情トラ】による私的な理解を含めた個人的なメモです。

  • 近代国際法の適用領域−普遍性の放棄−

 当初「internatinal law」の訳語として使われていたのは、もっぱら「万国公法」であったが、箕作麟祥が「世界のすべての国に適用されるものではない」と気づき、「国際法」との訳語をあてたことによる。
 当時の「国家承認」という語がもつ意味は、現在の国家承認が、国際社会の国家であるという資格を承認することであり、当然にその国家は国際法の適用を受けることになることと異なっていた。当時の国家承認とは、国際法の適用を受けることの認定であり、国家であるからといって、文明国(文明が要件とされる。つまり、キリスト教文化に対するある程度の理解がないと意味がないとされる。)でない限りは、国際法の適用は受けないとされていたのである。では、非文明国に、文明国はどう対応していたのか。これは、領事裁判権を保持することで対応していたとされる。
 こうした国際法の普遍的適用を拒否する態度は、19世紀の状況よりも明らかな後退であった。19世紀から20世紀前半にかけての近代においては、文明国である欧米にだけ国際法が適用され、野蛮国である日本や中国、トルコ、タイなどには、通商条約だけが締結され、領事裁判権が文明国側に保持された。そして、その他の未開の国々は、欧米の植民地とされたのである。

  • 慣習国際法の普遍性−「一貫した反対国」理論の批判的検討−

 慣習国際法とは、その性質上、すべての国家に平等に適用されるものである。しかし、近年、「一貫した反対国」理論が台頭してきているところにある。この「一貫した反対国」理論とは、ある慣習国際法の成立の初期から、一貫して反対しているならば、当該国にはその慣習国際法が適用されないとするものである。
 しかし、国際法においても強行規範とされるものがある(ex.人身売買禁止など)わけであって、仮に核兵器使用に関する禁止の一般法ができたとしても、その成立の当初から一貫して反対している国があれば、その国だけは核兵器を使用しても国際法違反にならないということになって、その法の存在意義自体が失われる。たとえ、「一貫した反対国」理論が、そうした強行規定は例外だとしても、やはりこの理論は、legalなものではなく、politicalなものである、と批判しうるのではないか。

  • 人権条約の規範的普遍性の検証

 条約は、それを批准した国だけが拘束されるものであって、慣習国際法と違って、「普遍性」があるとはあまりいえない。しかし、人権に関しては普遍性があるものと通常は考えられるが、それに対して、それぞれの文化的伝統と調和する限度で人権を考えればいいとの主張もなされるところである。
 具体的に、女性差別撤廃条約で検討してみると、この条約の内容は非常に厳格なものであるにもかかわらず、多くの国々が批准している。しかし、問題は、その条約の批准にあたって、条約の趣旨の根幹となる規定を留保する(=自分の国の法の範囲内で条約を適用するとする)国々が存在することである。そもそも条約の趣旨及び目的と両立しない留保や、自国の法を援用することは認められないといった原則があるにもかかわらず、こうした例外が認められたのは、人権条約のもつ特色にあると考えられる。すなわち、ある国が守らないとしても、他国が被害を受けないという特色である。それと、現状を鑑みて、とりあえず、条約を梃子にして改善していく契機としてほしい、また、当該国内反対勢力に対する改善の正当化根拠になるだろうといういわゆる大人の判断があったとも考えられるよう。
 しかし、こうした留保や例外は、できるだけつくるべきではない。このような留保や例外が、せっかく獲得した普遍性をきりくずす動きとなり、条約そのものの実効性を保てなくなることにつながらないか不安視されるところである。