諫早湾干拓事業に関する推進のための戦略と失敗からの教訓と

 平成19年11月20日付のニュースから。

 国営諫早湾干拓事業(長崎)は、科学技術分野の歴史で重要な事故・失敗例として、文部科学省の外郭団体の科学技術振興機構(JST)がまとめた「失敗百選」に選ばれている。
 JSTは、失敗から得られた知識や教訓を後世に生かすことを目的に「失敗知識データベース」を作成、インターネットで公開している。失敗百選は、そのなかでも特に「典型的な失敗例」とされる。
 諫早については「ノリを始めとする漁獲高の減少など、水産業振興の大きな妨げにもなっている」と干拓による漁業被害を挙げ、「走り出したら止まらない公共事業という国民的批判と不信を生み出した」と指摘。諫早湾を分断した干拓堤防や調整池からの排水、干潟の消失などが原因と分析している。
 さらに、将来のための教訓として、「国はある時期に実施決定した公共事業であっても、社会経済条件の変化について的確に再評価を行うべきである」とまとめた。
 こうした評価について、農水省諫早湾干拓事務所は「農業面や防災面では高い評価を受けている」と反論する。
(中略)
 JSTの前身は科学技術振興事業団。失敗知識データベースは、5人の大学教授でつくる推進委員会(委員長=畑村洋太郎・東大名誉教授)が取り上げる事例を決定し、その指示を受けて専門の研究者らが執筆する。1136件の概要や経過、原因、死傷者数、社会的影響などが記載され、昨年度は国内外から約450万回の閲覧があった。

 asahi.com:諫早湾干拓、「失敗百選」に 文科省の外郭団体選定から一部を抜粋
【参考として】http://shippai.jst.go.jp/fkd/Detail?fn=0&id=CD0000139


 そして,このニュースが,なぜ平成19年11月20日付のニュースとなったのかは,その翌日21日付のニュースから。

 防災と優良農地造成を目的にした国営諫早湾干拓事業は二十日、現地で完工式を迎えた。事業着手から二十一年。長崎大干拓構想から半世紀を超えた巨大公共事業は本年度で完了し、来春から営農が始まる。九州農政局主催の完工記念行事は諫早市内で開かれ、農水省や地元関係団体の代表ら約二百八十人が出席。「有明海異変」の原因は諫干と指摘する漁業者らは会場周辺や諫早湾で抗議行動を繰り広げ、排水門の開放などを訴えた。
(後略)

 長崎新聞ホームページ:諫干事業が完工 構想から半世紀、来年4月営農開始から一部を抜粋

 国営諫早湾干拓事業が完工したとのこと。同事業に関しては,次に掲げる論考をまとめたことがあるので,現在も,ときどきチェックしているわけです。
http://www.geocities.jp/joho_triangle/isahayawan.html*1


 なお,最初のニュースで紹介されている失敗知識データベースでは,「国はある時期に実施決定した公共事業であっても、社会経済条件の変化について的確に再評価を行うべきである」との教訓が示されていますが,この教訓は,非常に興味深いことに,私が上記「諫早湾干拓事業における権力構造」において指摘した事業推進のための戦略と,非常に似通ったものを感じさせるものなのです。
 具体的には,「諫早湾干拓事業が推進されてきたこの50年を通じて、常に中心的な推進派アクターである長崎県は(、たとえ生計に直結するような理由をもつ勢力の反対により、事業中止が決定されたとしても)、様々なリソースを最大限に利用して、その時々の社会目標にいろいろな形で関連させ、事業推進をすすめてきた」との戦略を指摘したわけですが,どうですか,何だか似通っていません?


 つまり,失敗知識データベースにおいて知識化された教訓に合わせて,諫早湾干拓事業を推進する際の戦略を言い換えると,「ある時期に実施中止が決定した公共事業であっても,社会経済条件の変化について的確に再評価を行うことによって,形をかえた事業の推進が図られてきた」といえそうです。確かに,ある一面からみると,この双方の教訓・戦略は,全く逆方向を向いているようですが,しかし,他の一面からみると,これらは非常に似通った構造をもつ教訓・戦略なのではないでしょうか。
 したがって,あえて非常に物を含んだような言い方をするならば,次のようにも言えるのかもしれません。
 「わざわざ失敗知識データベースで教訓として掲げられるまでもなく,既に事業推進のための再評価システムであれば,強力かつ有効に実践されてきましたよ」,と。


 以下は,参考として。

 諫早湾干拓事業における権力構造を探っていくにあたり、現在の「国営諫早湾干拓事業」の経緯だけではなく、さかのぼってそもそもの計画構想の発端となった1948年から様々な計画が変遷してきた経緯も含めて、大きな転換点ごとに6つに区切ってみてきた。
 そして、それぞれの時点において、「誰がこの事業の推進または中止を決める権力を握っていたのか?」という問題を設定し、筆者なりの回答を出し、それらの回答が全て揃ったのであるが、ここでもうひとつ『それぞれの事業が、推進されるか、中止されるかの違いをもたらした最も大きな要因とは何か?』という問題設定をしてみたい。
 この回答を一言でいうと、『その時々における最大の反対派アクターにとっての反対理由に、その生計を立てる手段に直結した反対理由があるかどうかである』ということになるのではないだろうか。


 以下、章ごとにまとめる。

第1章 1950年から1970年までの経緯
<長崎大干拓事業の経緯>
 有明海沿岸のノリ養殖業が飛躍的な発展を開始したことにより、漁業の将来に展望を見出した諫早湾内の漁民達がその生活をかけて反対派として立ち上がったからこそ、中止となった。

第2章 1970年から1973年までの経緯
長崎県南部地域総合開発事業の経緯>
 反対派アクターとしての諫早湾内12漁協の漁民が、当時における漁業の現状や将来の展望について大きな見込みをもっていたために、強気な姿勢を貫いて自分たちの最低補償額を少しも譲歩しようとせず、推進派の長崎県農林省が反対派漁民による最低補償額の案まで全くといっていいほど歩み寄れなかったために、湾内漁民と漁業補償金の額について合意に達しず、休止となった。

第3章 1974年から1976年までの経緯
<再度の長崎県南部地域総合開発事業の経緯>
 ある程度生計を立てられるだけの漁業補償金の額を、県を中心とした推進派アクターのほうが「補償金は国の予算の関係上、県が立て替えて3年分割で払う」という方法で用意できたことと、湾内漁民達に将来の生活に対する不安が生じ始めたがゆえに、湾内漁民の同意を得られた。

第4章 1977年から1982年までの経緯
<湾外の反対運動と南総計画の経緯>
 「諫早湾有明海のゆりかごであり、子宮である」という言葉に表現されるように、湾外漁民の生計に影響が大きいからこそ推進派アクターが強行できず、打ち切りとなった。

第5章 1983年から1989年までの経緯
諫早湾干拓事業の経緯>
 湾外漁民の生計に影響が少ない大きさにまで規模を縮小し、さらには防災という名目のもと地元住民の生活を守るものとして推進されていった。

第6章 1989年から1997年4月14日(いわゆる“ギロチン”の日)までの経緯
諫早湾干拓事業/着工からのその経緯(ギロチンまで)>
第7章 1997年4月14日(いわゆる“ギロチン”の日)から1998年2月の長崎県知事選挙までの経緯
諫早湾干拓事業/ギロチンから長崎県知事選挙まで>
 自然保護問題にしても公共事業問題にしても、それが直接的にその反対派アクターの生活の場を奪う性質のものではないために、推進派アクター側が、全国規模にまで広かった事態を沈静化させることに成功した。

 以上のまとめから、推進派と反対派の対立の結果の行方は、「どちらがより生活・生計に密着した理由を提示しているか」というところに左右されていると考えられるのである。


 また、面白いことに、推進派の理由は、時代ごとに同一の推進派アクターにより変えられているのであるが、反対派の理由は、時代ごとに異なる反対派アクターが登場し変わっているという違いを指摘することができよう。
 この指摘から、さらに、戦後の日本における各地方公共団体で、特に自前の財力がないとされるところには、農地開発、工業開発、水資源開発、福祉施策、環境問題等々、その時々の社会目標に関連させながら、中央政府の金を引き出そうとする戦略があったといえるのではないだろうか。

 諫早湾干拓事業が推進されてきたこの50年を通じて、常に中心的な推進派アクターである長崎県は、様々なリソースを最大限に利用して、その時々の社会目標にいろいろな形で関連させ、事業推進をすすめてきたのである。それが、推進派の理由は、時代ごとに同一のアクター自らの手により変えられているということの具体的な意味である。
まとめとして/諫早湾干拓事業における権力構造から適宜抜粋

*1:Googleで「諫早湾干拓事業」と検索してみると,検索結果ページ1ページ目にでてくるようで。google:諫早湾干拓事業